「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」から学ぶ−その1−

シンクレア編の図解ニュージーランドの

キース=シンクレア(Keith Sinclair)編の「図解オックスフォードニュージーランドの歴史」(The Oxford Illustrated History of New Zealand)という本を、アレックスの長女マーガレットの旦那のジェフから借りているのだが、これはなかなかいい本だ。
 キース=シンクレア編のこの本(以下、「図解」と略す)も、またマイケル=キングの本においても、マオリ土地戦争は、「ニュージーランド戦争」(the New Zealand Wars)と規定されている。
 この「図解」から学んだことをもとにして、少しだけニュージーランドの歴史について触れてみよう。
 「図解」によれば、1873年という年は、ニュージーランド戦争が終了した年*1とある。ただし、マオリからみれば、土地戦争は今日なお終わっていない。今なお続いていると見る見方が支配的である。この点は、後日、また触れることになろう。この年は、オラカウ(Orakau)でマオリが壊滅的打撃を受け、マオリ王運動(the King Movement)が終わったとされる1864年から数えて9年後、ワイタンギ条約からであれば33年後にあたる。
 この時期、北島の半分は、まだマオリの統治下だったという。だから、1840年から1872年にかけて、そしてその後も、マオリとパケハ*2との関係は、それぞれ独立した地域として、それぞれ歴史がある。そして一概にマオリといっても、たくさんの種族(tribes)とハプ(hapū)に分かれているから、全体像を把握することは簡単ではない。ワイカトだけでも、大きく言って、三つのグループに分かれる*3という。
 ところで、マオリキリスト教化は、マオリが多文化に対して排他的ではなかったというように解釈すべきで、マオリが宗教的に軽々しいと考えてはいけない。新しい文化と文明を取り入れ、新しい神を受け入れるのにマオリはやぶさかではなかったのだ。Anglican, Methodist, Catholicのいずれかを、あるいは、これら三つを全てを、マオリは受け入れたが、これは彼らの信仰を取りかえたのではなくて、彼らがクリスチャニティを取り入れて、彼らなりに作り上げた独自のクリスチャニティというべきものだった。
 パケハが住んでいる地域に、マオリは、じゃがいも、クマラ(さつまいも)、小麦、とうもろこし、豚、魚、果物を持ち込んだのだが、1848年当時の資料からすると、卸商人としてのマオリはほぼ独占状態で、白人らの入る余地はなかったという。1850年代には、マオリは、自分たちで小麦から小麦粉も作り始め、荷台やカヌー、小さな船で運んでいたという。この頃より、召使や使用人、季節労働者、あるいは娼婦としてですら、パケハの住む地域に、生涯住み始めたマオリも出始めたという。
 経済的に、マオリはパケハに依存するようになり、またその逆の傾向も生まれた。マオリの部族は商業化され、また商業は部族化された。
 こうした点で特徴的なのは、なんといっても土地である。マオリとパケハの「合併」の道のりの近道は、土地の売買であった。
 通常、マオリは、さまざまな理由から、そのいくつかは近視眼的なために、喜んで土地を売った。あるときは騙されて土地を売ったが、時に逆も生じて、三度も売却済みの土地が騙しやすいパケハに売られることもあったという。
 1840年までの土地の売買は、めちゃくちゃだった(Land purchases up to 1840 were a mess)と、「図解」に記述されている。

*1:マイケル=キング(Michael King)の"The Penguin History of New Zealand”2003によれば、1872年の2月が、「ニュージーランド戦争」(the New Zealand Wars)の最後にあたるとある。

*2:ヨーロッパ系白人のこと。パケハには差別的含意が感じられるという白人もいる。

*3:「図解」によれば、ワイカトの三つのグループは、the Waikato-Ngati Maniapoto-Ngati Haua alliance, Waikato proper, the various tribes which comprised it, such as Ngati Mahuta, Ngapuhiとなっている。