タラナキのマオリは反逆児

 タラナキのマオリの部族は8つほどあるのだが、1840年のワイタンギ条約に署名しなかったことで有名だ。
 これには、ワイタンギ周辺のマオリの部族やワイカトの部族との抗争も理由としてあったらしいが、タラナキの部族の独立心が強かったこともあるという。
 1850年代になると、ワイカトの部族がタラナキに北の方から南下して攻めてきたが、タラナキの部族がワイカトの部族をやっつけて、休戦となったらしい。
 ワイカトの王擁立運動に対しても、タラナキの全ての部族が賛成し従ったわけではないという。
 1860年頃からタラナキ地域の測量が始まり、1863年の「移住法」(The Settlement Act)によって、タラナキのマオリが反逆児(Rebel)ということで、土地の没収(confiscation)が進んだようだ。
 1880年代になると、二代目のタフィオ王は、パリハカ(Parihaka)のテ・ウア・ハンメネ(Te Ua Hanmene)や、テ・フィティ・オロンゴマイ(Te Whiti Orongomai)、トフ=カーカヒ(Tohu Kākahi)の平和運動を支持するために、12*1の家族を送った経緯もあるという。
 タラナキ地域のワイタンギ審判所の報告書など、タラナキの歴史を学ぶだけでも、相当の資料がある。
 イギリス系が支配していたそれまでのニュージーランドの歴史研究に対して、こうした歴史的事実は、これまで報告されることはなかったけれど、1970年代から1980年代にかけて、いわばマオリとパケハが協力しながら、歴史研究が進み、今は大量の歴史研究書が毎年発行され続けている。
 それは、オークランド大学で教鞭をとっていた教授たちがパイオニアであり、その門下生として学んだジェフの世代が、いわば後継者の世代にあたるのだろう。
 今、ニュージーランドアオテアロアの歴史研究が充実してきているのは、そうした先駆者・後継者の努力によるところが大きい。

*1:マオリ語で12を意味するテコウ・マー・ルアと呼ばれている。