タラナキ戦争

 ワイカト戦争と同じく、タラナキは、ニュージーランド戦争で有名な地域だ。
 博物館の展示にもとづいて、概略を見てみることにしよう。

  • 第一次タラナキ戦争(1860-1861)

 最初の戦争は、ニュープリマス周辺、タタライマカ(Tataraimaka)とワイタラ(Waitara)で起こったのだが、主に戦術的な性格が強かった。脅威に対する報復として必要な際に戦闘が起こった。ニュープリマスの移民の周囲からの隔絶、そして1860年冬の生き残りをかけた闘いが、第一段階の主要な特徴であった。1861年3月の休戦で戦闘状態は終わったが、原因が取り除かれたわけではなかった。1863年ニュージーランド民法は、「反逆」者の土地の収用を認めた。このときは、マオリの抵抗を分断し、長期的に抵抗できるような資源提供を与えないようにする軍事的キャンペーンに政府は着手した。

  • 第二次タラナキ戦争(1863-1866)

 第二次タラナキ戦争は、タタライマカ地域の再占拠によって、イギリス国家によって主導された。テ・ウア・ハウメネ(Te Ua Haumene)によるパイマリエ(Pai Marie)信仰の興隆とも、これは関連している。テ・ウア・ハウメネは、タラナキのイウィ*1のリーダーであった。軍事的視点から考えれば、この戦争は、主に戦略からのことで、マオリの砦に対抗するために、要塞化した砦をフロンティアにつくるという長期的な目的があった。ワンガヌイ(Wanganui)とパテア(Patea)から西海岸へと軍事行動も移動した。この地域での衝突は、植民地軍の総指揮官であるトレバー=シュート(Trevor Shute)将軍のタラナキ地域の東部を通過する行進と、テ・ウア(Te Ua)を捕らえることで終わりを告げた。

  • 第三次タラナキ戦争(1868-1869)

 第三次タラナキ戦争は、ときに、ティトコワル(Titokowaru)戦争と呼ばれる。交渉が続けられている間に、パケハが土地の測量を続けマオリの土地を占拠したことに対して、南部のタラナキのイウィ(iwi)が反応したことから戦争が起こった。リファ=ティトコワル(Riwha Titokowaru)がマオリの指導者だった。彼の電光石火の奇襲攻撃はパケハを恐怖に陥れた。
 テ・ングツ・オ・テ・マツを含む、面目丸つぶれのような損失が続いたあとで、パケハ軍隊の近代的装備によって、マオリの抵抗をようやく圧倒し、1869年の中頃には、10年にわたるタラナキ戦争は終わりを告げた。
 1881年のエグモント岬の内側になるパリハカ(Parihaka)の占拠は、しばしばタラナキ戦争の一部と考えられている。

*1:イウィ(iwi)は、「部族」という、マオリ社会では重要な概念。自己紹介の際に、どこのイウィに所属しているのかという情報は重要な情報になる。