旅行ガイドブックで、タラナキ戦争を学ぶ

 タラナキ戦争については旅行ガイドブックのロンリープラネットに詳しく、これから書く段落の部分だけをロンリープラネットから補足する。
 そもそもタラナキ地域は古くからマオリが住んでいた地域である。
 ヨーロッパからの植民は1841年から始まったのだが、ワイカト族の攻撃から身を守るために1820年代にクック海峡の地域にタラナキマオリが一時的に移り住んでいたため、ニュープリマスに残っていたアティ アワ族以外、タラナキには、ほとんどマオリがいない状態だった。そして、アティ アワ族から、ニュージーランド会社が土地を買ったのだが、残りのタラナキマオリが戻ってきた際に、土地売却に対する猛烈な抵抗が起こった。
 ニュージーランド会社はニュープリマスの10平方キロしか保持できないとフィッツロイ(Fitzroy)総督が裁定した際に、タラナキマオリの主張は、事実上守られた。イギリス帝国はじわりじわりと土地をマオリから獲得していったが、マオリは土地を売るのを嫌がった。と同時に、ヨーロッパ系移民は、ワイタラ*1付近の肥沃な土地獲得に対して、極めて貪欲になり、そのために移民たちは政府に交渉という基本方針を放棄させ、戦争に訴えたのだった。
 1860年に勃発したこのタラナキ戦争は、その後10年間続いたという。この時期、移民たちはワイタラに移り住み、ワイタラを支配した。
 ところで、そもそもタラナキのチーフたちは、ワイタンギ条約への署名をしていない。だからタラナキマオリたちは、イギリス女王の主権を認めていなかった。ただし、イギリスからみれば、彼らは反乱者として映っていた。
 こうして、交渉ではなく、暴力に訴えた結果、1870年までに500ヘクタールもの土地が押収され、残りの土地も、うさんくさい(dubious)取引で移民者の手に渡ったのだった。

*1:ワイタラは、ニュープリマスの東に位置している。