オラカウの闘い

Site 21-Orakau
 キャメロン将軍の野望は、1864年2月、ランギアオヒアを陥落させたことで満足した。
 しかし、マオリの指導者・レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)は、水や食料も十分にない中、300人以下の人数で、オラカウ(Orakau)に村(pa)*1を建て始めた。
 イギリス軍は、1200人の軍隊を率いて、オラカウに行進した。
 この村は完成していなかったにもかかわらず、見かけよりも防衛上強かった。イギリス軍の3度の攻撃にもかかわらず、イギリス軍は後退を余儀なくされ、5人が死に、11人が負傷した。
 次に、6ポンド砲(6-pounder Armstrong gun)を二門持ち込んで、攻撃目標から350メートル離れた南南西の方角、カラポニア(Karaponia)尾根の最も高いところにそなえつけた。しかし、シダ(fern)で覆われた土塁に対しては、ほとんど打撃を与えることはできなかった。
 そこで今度は、ジグザグの塹壕を掘って近づき、爆薬を壁にしかけて破損を生じさせる戦法を取った。
 4月2日の午後、キャメロンが到着し、マオリに降伏の機会を与えたが、「友よ、マオリは言うべき言葉として一言しかない。われわれはあなたたちと永遠に、永遠に、永遠に闘う」(“Ehoa kotaki anake kupu a te Maori, ka whawhai ki a koutou, ake ake, ake.”(“Friend, the Maori have only one word to say-we will fight you forever and forever and forever.”))というコトバが残された。
 イギリス軍から女や子どもは逃げることができるとマオリ側に伝えられたが、これに対するマオリの返事も、「男女にとって、一つの規則しかない、すなわち、みな一緒に死ぬということだ」(”Ke taki ano tekanga me te tangata, me te wahine, me te katoa.”(“There is one rule for the men and the women; all will die together.”))というものだった。
 フォレストレインジャーと騎兵隊にマオリは追いかけられ、弾丸がヒョウのように降ったという。
 そして、300人ほどのマオリの中の少なくとも160人が、村の中で、あるいは逃げのびる際に、死んだと伝えられている。イギリス軍は、17人が殺され、52人が負傷した。
 ワイレム=タミハナはテ ティキ オ テ イヒンガランギ(Te Tiki o te Ihingarangi)を襲撃するつもりでいたが、オラカウの陥落を聞いたタミハナは村を離れることとした。
 オラカウはマオリにとって苦い敗北だったが、キャメロンの軍隊は戦闘後の殺戮について批判を浴びたと小冊子にある。
 オラカウの村には、特にこれといったものは残っていないが、キヒキヒから5キロほどキヒキヒ-アラプニ(Kihikihi-Arapuni)道路を行った右側に、碑が建っていて、レウィ=マニアポト(Rewi Maniapoto)の名も碑に刻まれていた。

*1:マオリ語でパ(pa)とは、マラエがある村を多くは意味する。