「五輪や万博、盛り上がるフリ 内田樹「共感が暴走」危惧」

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以下、朝日新聞デジタル版(2019年1月4日5時0分)から。

 昨年、LGBTをめぐる寄稿などで批判を受け、月刊誌「新潮45」が休刊になった。思想家の内田樹(うちだ・たつる)さんは自身のブログで、問題の背景に「読者との過剰なまでの共感と結託感」があったと指摘した。他人の幸福を喜んだり、不幸に同情したりする共感は、人間の美徳ではないのか。現在の社会は「共感が暴走している」と危惧する内田さんに聞いた。

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共感と同意だけが返ってくる環境
 ――「読者との過剰なまでの共感と結託感」とは、どのようなものですか?

 「同じような書き手が同じようなことを書いていて、読者も同じような反応をしている。共感っていうよりも定型だと思うんだけども、定型に収まることの安心感がすごく大きいような気がする。読者が求めている定型を、書き手のほうも定型的に出しているというね。そこには同語反復の循環だけしかなくて、自分が持っている考え方を強化してもらうためだけに読む人たちがいて、そういうニーズに沿ったかたちで書く人たちがいるという、閉じられたサイクルになっていた」

 「その仲間内でぐるぐる回っているうちに、だんだん『ちょっと、それはやばいんじゃないですか』みたいなことが、わからなくなっちゃう。それで、ある段階で節度を超えたっていうことなんじゃないか。だんだん文章が手抜きになってきて、明らかに推敲(すいこう)してないだろう、校閲してないだろう文章が流布するようになってきた。それは結局、きちんとした事実関係を踏まえないで発言したとき、読者から『これ違いますよ』とか『このような発言はおかしいんじゃないですか』とか指摘があれば、そこで自制されて、エビデンスを示そうとかロジカルに書こうとかいうふうになるんだろうけども、全然そういうものが入ってこなくて、ただ拍手喝采されるだけ。100%の共感と同意だけが読者から返ってくるというような、非常に人工的な出版環境が作られた。その結果、クールな読者というか、ある程度、批評的に見る読者を全く想定しないような執筆環境になじんだ書き手が生まれたんでしょう。外側の人たちの検証に耐えるものを書く気がないっていう」

(後略)

聞き手・山崎聡