オリンピック報道で聞いた「ワザーリ」

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 ニュージーランドに来てから2ヶ月以上が経つけれど、この間にテレビで2回ほど日本語からの借用語を聞いたことがある。
 ひとつは、「ワザーリ」。もうひとつは、「ミズーナ」である。前者はwazaariで、後者はmizunaと綴るのだろうか。音で聞いたからはっきりしない。
 ワザーリは、もちろんアテネオリンピックの柔道の放映の際に、他の柔道用語といっしょに何度か聞いた。
 ワザーリは、いわゆる借用語といわれるもので、イギリス語でいえば、borrowingといって、語彙をつくるときの常套手段のひとつだ。前に書いたように、イギリス語の場合、語彙をつくるときのパターンとしては、大雑把にいって8つくらいある。
 ところで、「言語の中で意味をあらわす最小単位」のことを専門用語で「モーフィーム」(morpheme)というのだけれど、この「意味をあわらす最小単位」のモーフィームで考えた場合、ワザーリはどうなるかといえば、それは当然、waza-ariだ。wazaは、わざわざ書くこともないけれど、「技」をあらわし、ワザーリは、そのワザが「ある」という意味になるからである。
 ところで、誓ってもいいけれど、イギリス語の母語話者は、「ワザーリ」を、柔道用語の中の意味を持つものとして、そのまま一語として使っているはずだ。もともとが一語なんだから当たり前の話ではあるけれど。つまり私の言いたいことは、日本語の母語話者が見えているモーフィームが外国人には当然のことながら見えないということなのである。いまや世界によく知られるようになった「カリオーキ」(karaoke)も、「(歌が)カラっぽのオーケストラ」というモーフィームはイギリス語の母語話者には普通見えていないはずだ。ちなみに、「カラオケ」のような語彙の作り方は、混ぜるという意味のブレンド(blends)という。breakfast+lunchのブランチ(brunch)なども、このブレンドによって作られた語彙だ。

 モーフィームなんて見えなくたってコトバなんて使えればいい。確かにその通りである。
 その昔、サンフランシスコに半年住んでいた際に、紀伊国屋書店料理本を立ち読みしている見知らぬアメリカ人から「キンピラってどういう意味ですか」と聞かれたことがある。
 「キンピラは料理の名前ですけど」と私が答えると、「キンは、goldで、ピラはflatを意味するんでしょう」と続けて言われて、こりゃぁ語源学習だと思って、自分の姿を見た気がして嫌になったことがある。
 キンピラは照りがあるからキンが使われたのかどうか知らないけれど、キンピラというコトバを知りたいのなら一番いい方法は、日本人のつくったキンピラを食べれば済む話だと思う。薀蓄(うんちく)を語りたいなら別だけど、語源学習までやるのはやりすぎだと思うのである。
 だから、ワザーリも、そのまま一語として、覚えて使って全く問題ない。そもそもこんな私の忠告に関係なく、母語話者はたいていそうしているはずだ。外国語学習の場合も丸暗記というのがあるのだけれど、コトバなんて使えればそれで問題はない。
 それでも、コトバというものは、語と語との関連で覚えやすくもなったり、文化的なものに納得したりすることも少なくないのである。イギリス語の中でいまや立派に一語として使われているワザーリも、「ワザがアルってことんなんですよ」と言えば、応用が利くし、文化的にも深くなるということは事実だ。私が聞いたもうひとつの日本語からの借用語は、イギリスのBBCの料理番組で登場したミズーナなのであるが、これだって、「ミズナっていうのはね、水の野菜ってことなんですよ」と言えば、やはり応用が利くし、文化的にも深くなることは間違いない。先方から「なるほどね」と、感心されるかもしれない。

 まさに逆も真なりで、例えば、イギリス語に「哲学」という意味のphilosophyという単語がある。
 これは、phil-がloveという意味のギリシャ語から来ていて、sophiaは、東京にこの名前のついた私立大学があるけれど、wisdomという意味だから、philosophyは、「智を愛する」ということになる。だから「哲学」。知恵(wisdom)と知識(knowledge)は、違うよねということも、ついでに言いたくなるではないか。
 こうした語源を知ると、第一にいいことは、イメージ的に理解できるようになることである。シンボルがつかめるようになると言ってもいい。言語的に孤立している日本では、外国語なんていったって、ピンとこない。英語学習が抽象的な作業になるのはそのためだ。だから、このシンボルがつかめるというのは、精神衛生上たいへんよろしい。
 その上、応用が利くようになる。
 philosophyがわかれば、philharmonyのイメージもつかめるようになるだろう。「ハーモニーを愛する」わけだから、まさにフィルハーモニーだ。大体、名前にフィリップだとか、フィル(Phil)がつく名前も多いけど、要するにこれは「愛くん」「愛ちゃん」なのである。
 「言語学」「文献学」を意味する、ロゴス(logos)と関係しているphilologyなんてのもある。Phil-がわかれば、アメリカ合州国にある、独立記念にゆかりの深いフィラデルフィア(Philadelphia)という街も、少しイメージが持てるようになるかもしれない。
 ピーニスと発音する男性性器のペニスだって、「細く突き出たもの」ということから、「半島をあらわすpeninsulaとも関連しているんですよ」といえば、丸暗記を脱して、イメージやシンボルの世界に少しは入れるというわけだ。
 ところで、応用言語学の課題を提出したと思ったら、また課題である。
 応用言語学の四番目の課題は、イギリス語を学んでいる学生の音読を録音したものをデータ分析し、指導のポイントを考えて、その学生をどのように指導するか戦略を考えるというもの。
 どうやら誰かをモルモットにしないといけないようだ。

才能がないなんて言ってる場合じゃないや

 今回は徹夜まではしなかったけれど、土日と結構な時間を使って応用言語学の課題を書いたのだけれど、なかなかまとまらなくて、とても困った。「君たちのレベルは、文章を書くのではなくて、恥をかくんですよ」と、その昔随分とお世話になり、今でもお世話になっている大学時代の恩師からよく言われたものだが、相変わらず、俺は恥をかき続けているようだ。
 ところで奥田民生の30歳のときの作品で「30」というアルバムがある(1995年)。このアルバムの中の「厳しいので有る」という唄がとくに私は好きなのだが、まさに学び考えるというのは厳しいのである。
 この歌詞の冒頭に、「シビア」という借用語(borrowing)が使われているが、イギリス語からの借用語はこの歌詞の中ではたったの一語だけ。
 漢字で書かないといけないような語彙も、「今日」「時間」「明日」「才能」「若者」「歴史」「天才」くらいしかない。この中でどれが歴史的に長い漢語なのか、よくわからないけれど、あとは柔らかい和語である。

 この「厳しいので有る」はなかなかの名曲だと私は思っているのだが、話は少し変わって、これは前にも書いたのだけれど、日本語は動詞後置性の言語なので、動詞については最後まで聞かないとわからない言語だ。イギリス語の場合、「主語+述語」というSV感覚は強固で、「主語+述語」まで聞けばわかる。逆に、目的語は最後まで聞かないとわからない。
 日本語では、例えば、次の文はどうだろうか。

    • 私は
    • 明日
    • 渋谷に       ---------行くつもりだ。
    • 彼女と一緒に
    • 映画館に

 上の文章中で、いばっているボス的存在は、「行くつもりだ」という動詞である。文頭にある残りの「私は」も、「明日」も、「渋谷に」も、「彼女と一緒に」も、「映画館に」も全部、「行くつもりだ」にかかっている。いわば修飾関係にあるといえる。
 それで、前にも紹介したけれど、日本語の場合、例の「主語」という概念はあまり役に立たない。文脈によっては、この「私は」がよく省略されるということもあるけれど、むしろ、「行くつもりだ」という動詞との関係性でいうと、「私は」も「明日」も、残りの全ても、動詞に対して平等の関係にあると思えるからだ。これらは、語順的に全く自由であり、日本語においては、なによりもこの動詞との関係性が重要だ。
 日本語においては「主語」という概念はあまり役に立たないと書いたけれど、「は」が「主格」をあらわす助詞であるということは、ある。だけれども、この場合、「は」は「主題」も表わすことができて、日本語の場合、むしろこの「主題」をあらわせるところに優れた特徴があり、この「主題」の「は」を使いこなすことができるかどうかが、日本語の使い手としてのひとつの試金石であるはずだ。
 ところで、動詞後置性である日本語では動詞が全体をしきっているものだから、日本語は、最後に意味をひっくり返すことが得意だ。いわゆる落語でいう「落ち」という奴である。
 だからこそ、奥田民生の「厳しいので有る」という歌詞の中の「才能がないや」「なんてこと、言ってる場合じゃないや」という表現は、日本語の理にかなった面白い表現となる。

         時間がない
         明日が怖い
         何も出ない
         こりゃやばい


         終わりだわ
         才能がないや
         なんてこと
         言ってる場合じゃないや


                         (「厳しいので有る」奥田民生


 ユニコーン解散後、ギターのコード進行などの曲づくりに凝っていた時期があると奥田本人が言っていたし、また奥田は昔っから曲を作ってから歌詞を考えることが少なくないと言っていたことがあるから、「厳しいので有る」は、おそらく創作活動の中で、奥田自身が感じた感慨であろう。
 自分はもっとできるはずという自負もあるのだけれど、創作というものはそんなに簡単にはできない。ものをつくるということには、なにしろ葛藤がつきものである。
 俺の作文課題などは、新しいものを作るという段階の話ではないけれど、一から何かつくるということでは同じである。
 ものづくりは、簡単にできない。つまり、「厳しいので有る」。

口頭発表が迫ってきた、こりゃやばい

 なんてことを書いてる場合じゃなくなってきた。マオリ語の口頭発表がまた近づいてきたからだ。
 テーマは、昨年何をやっていて、今年は何をやっているのか、将来はどうするのかというテーマで、「現在」「過去」「未来」の表現を文法的に使うことになる。
 マオリの友達にかなり手伝ってもらって、内容を書き、メンター(師匠)に相談して、原稿を完成させ、金曜日には発表だから、それまでに覚えないといけない。
 まさに、「厳しいので有る」。