自分というものをしっかりもちたい

 今日、本をmail sackで送った。重量が63ポンドもあり、コンドから郵便局まで両手を抱えて持って行ったが、30キロ弱あるので疲れた。6週間から2か月かかるとのこと。
 何故俺はこんなことをやっているのか。急にバカバカしくなることがある。動揺常なく、迷ってばかりいる。外国に来て、日本とは何か。アメリカ合州国とは何か、よく考える。
 今日は、クラスメートの中国人とJapan Centerに行ってきた。山本周五郎の「日々平安」、吉川英治の「随筆宮本武蔵」を買い求めたのだが、止めにして、講談社新書の「禅のこころ」「禅のことば」「座禅の精神」を買った。
 この頃、何故か、全部ではないが、日本人は品がないように見えてしまう。金さえあれば、スリーピースも着ることができる。口紅もつけられる。しかし、何故か、外見だけまねしているような人に会うと、嫌になる。何か、内面から出る美しさというものを求められないか。文化的に負けている歴史をもつ日本で、真のidentityをもつのはなかなか難しい。
 黒澤明の映画、三船敏郎宮本武蔵に惹かれるのは論理的帰結かもしれない。考えてみると、日本的というものがあるのか。日本の歴史をみても、以前より、異文化コミュニケーションの歴史だ。中国・朝鮮・ヨーロッパ・アメリカ合州国と、異文化コミュニケーションがある限り、異文化接触を恐れるのは当たり前だ。となると、やはりどう取り入れるかが重要なのだろう。
 自分というものをしっかりと持ちたい。きちんと目標をもち、一日一日精進し、迷いのない「我、ことにおいて後悔せず」と喝破できる強さを持ちたい。
 今、「禅のこころ」を読んでいるが、どうも読みづらい。見慣れぬ名詞がたくさん出てきて、それが仏教の大切な概念ときているので、面倒を感じる。と同時に、日本語というものは、いかに仏教というものを、その背景に持っているのか、考えさせられた。仏教用語が日常化することが多いのと同じように、英語とキリスト教との関係も、切っても切れない関係があるのだろう。
 彼らは、よく言う。”Oh, Jesus!”, “Oh, my god!”, “Oh, my goodness!”,”Gee!(Jesusの訛り)”。いずれも驚きを表し、嬉しいとき、死人を見たとき、強いて言えば、「ああ」「あらあら」というところか。
 最近俺もよく使うようになっているが。