1943年の2月25日に起きたこの事件は、すでに62年も前のことになる。
Michiharu Shinya氏は、銃声を実際に聞いたり、事件前後の文脈は理解しているものの、事件現場としては、同じ場所にいなかったので主に後日談として聞いたようだ。氏の英語版の本の反乱(Riot)という章だけ、斜め読みして私が理解したことは次のような内容である。
以前から日本兵と護衛との間には対立的な緊張関係があったようだが、この2月25日、240名ほどの捕虜が、武器を持った47名の護衛と対峙し、指示に従わず座り込みや石を投げるという反抗的態度を取った日本兵捕虜に対して、武器を持ったニュージーランド人の護衛が、捕虜であるから当然なのだが、武器を持たずに丸腰の日本兵捕虜に対して、警報のための発砲はあったものの、さらなる発砲によって1分もしないうちに122名もの日本人捕虜を怪我か死亡に至らしめたという事件であったようだ。
跳ね返った弾丸の傷がもとで一人のニュージーランド人の護衛は死亡し、別の三人の護衛と当日当番だった兵士は入院となったというから、かなりの弾丸が発砲されたことをうかがい知ることができる。
これはニュージーランドがイギリスの卵の殻をまだつけていた時代の産物だろう。
キーウィは、そうした立場を今確実に反省している。
そして、ほとんどのキーウィがこの事件を知っている*1のに、Michiharu Shinya氏の本が日本で出版されたようだが、日本ではほとんど知られていない事件であるように思う*2。