世界を知るためには、英語をやった方がよい。これが今の私の結論である。
若いときは、これからの世の中は英語くらい話せないとダメだと無批判的に言われると、とくに自分はやっていない大人たちに反発して、「そんなことはない、(国内にいる限り)日本人は日本語で十分だ。(そんなに英語が大切なら、まずあなたがやりなさい)」と反論してきた。これは英語で苦労してきている自分の体験からも、そう言いたかった。英語をマスターするといっても、個人の中では、ものすごい文化的葛藤が起こるということを経験上、身をもって体験しているからだ。
そして、初めてアメリカ合州国に出かけ、英語をともに学習したクラスメート、彼らは、ドイツ人であったり、フランス人であったりしたのだが、そのとき考えたことは、ドイツ人が英語をやる距離感と日本人が英語をやる距離感とでは、違いがあるという認識であった。英語をマスターするという点で、日本人にとって圧倒的に不利なのだ。
そこで、自分の頭で考えた結論は、日本人の英語下手は、日本国内に、必然性のある言語環境が欠如しているからという当たり前の結論だった。
日本人は頭が悪いわけでもない。生来の外国語下手でもない。国内では必要がないのだ。
だけれども、今は少し違っていて、せっかくやっている英語をモノにした方がいいとは思う。それは、世界を知るためである。と同時に、己を知るためである。
やるなら中途半端はいけない。徹底してやった方がよい。
また英語をマスターした方がよい理由としては、日本メディアの問題もある。
世界を知るためには、直接体験と、間接体験とがあるけれど、間接体験でいえば、今の日本のメディアはかなり問題を抱えていると私は観察している。というのも今のメディアが伝えていないことがあるからだ。あるいは伝えるにしても、もっと突っ込んだ報道が必要なことも少なくない。だから、世界を知るためには英語をやった方がよい。
と同時に、若い人たちの英語は、帰国子女や特別な教育を受けたもの以外では、武器として不完全だろう。当然のことだ。だから、母語である日本語も武器として大切にしてもらいたい。日本語でやれることがたくさんあると思うのだ。実際、中途半端な外国語など役に立たないことも多いのは、経験済みのことだろう。
そうして、自分のコトバを武器にして、不十分でも英語のような外国語も武器にして、できれば、外国語も武器として使えるところまで磨いて駆使して、世界を知って欲しい。
そのためにも、日本を脱出することが方法論として、ある種、ショック療法として、重要だ。
世界は、当たり前のように、英語を武器にして、情報収集や、交流している人たちが少なくない。世界を牛耳っている巨大な英語文化圏だ。アジアでは、中国語を武器にして、情報収集や、交流している人たちもいるだろう。アジアにはアジアの文化圏がある。ひるがえって、日本は、どうか。
歴史的な関係から、台湾などで日本語が通じたりするけれど、日本語のマーケットは巨大ではあるけれど、狭い。日本語が通じるのは日本国内だけといってよい。その中で、今の大人や若者たちは、自分の姿だけを鏡で見て、自惚れたり、落胆したり、内省しているのが今の日本の大人や若者たちの姿ではないのか。
日本国内の方が居心地がよい。風当たりも少ない。これでは、モノを言わぬナルシストばかりになっても不思議はない。
けれど、情報化社会といいながら、私の元同僚の話の中にも出てきた、今世界で問題になっている環境問題や、オーストラリアの水不足なども、今の日本人は、どれほどの豊かな想像力をもって理解できているのだろうか。
若者は、世界を知るために、日本語と英語を武器にして、日本を出て放浪すべきだ。