「政治生命をかけるべきもの」

amamu2012-07-04

 残念ながら、写真を見たことも書かれたものを読んだこともないけれど、作家で写真家の藤原新也さんが「水俣病、そして原発事故」と題して、7月4日の朝日新聞に書かれていた。
 『「3・11」から後、あらためて水俣病が注目されている』との書き出しで、水俣病原発事故の類似性を指摘し、「忌まわしい歴史が繰り返されている」と書かれている。
 ただ、水俣病原発事故は「すべてが軌一であるというわけではない」として、次のように述べられている。


 水俣の水銀汚染は(中略)被害の拡散範囲に地域性があるのに対し、福島の場合は、チェルノブイリ原発事故によって三重のお茶から多量のセシウムが検出されたことが示すように、福島を最大被害地として日本のみならず全世界に広がる。(中略)陸、海、空に拡散した放射能物質の封印は不可能だ。


 藤原さんは、「もうひとつ」「決定的な違い」は、「水俣では土地や家、家族は残ったが、福島では我々は『国土を失った』ということだ。そしてその国土に住む国民から土地や家を奪い、流浪の民に追いやったということだ。この”原発難民”とも言える方々は人知れず私たちの傍らにいる」と指摘し、次のように文章をしめくくられている。


 こんな第一級の緊急時にドジョウの誠実を騙った野田さん、あなたは消費増税法案成立に政治生命をかけると言った。大飯原発の再稼働にも政治生命をかけていたらしい。
 しかし、いま一国の長が政治生命をかけるべきことは明白だ。この広大な国土の喪失に対しどう対処するかであり、日本を壊滅に導くかも知れない福島第一原発4号機の倒壊阻止、そして路頭に迷う国民をどう救済するかである。


 言うまでもなく、私たちは自然の中で生かされている。私たちの命は、汚染されざる大地、汚染されざる水、汚染されざる空気という、自然環境の中でしか十全に保全されない。肥大化された文明が文化を破壊する場合、守るべきものは文明ではなく、文化である。「都市化」という文明を否定することできないにせよ、文明と文化の均衡を欠いた場合、バランスをとらなければならない。管理のできないものを放置することは全くの無責任であり、破滅の道である。
 政治は、人間の自由と権利を擁護するために組織されるものだ。少なくとも、そうした自由と権利を擁護する歴史を積み重ねてきたはずである。政治は自己目的ではなく、手段に他ならない。
 優先順位を間違えてはいけない。