「それは人間であることとなんの関係があるのか」

ヒューマニズム考


 渡辺一夫さんの「ヒューマニズム考―人間であること (1973年) (講談社現代新書)」を面白く読んだ話の続き。
 フランス文学者・渡辺一夫さんの書いた「ヒューマニズム考」は、文体は平易だが、内容的に文化背景的に深いものがあり、理解することは案外たいへんだと思うけれど、本書を読んで、エラスムスの「痴愚神礼賛」など読みたくなるほどの説得力がある。
 本書の「はじめに」のところで触れられている「巨象と群盲の話」「田毎の月」のたとえ話の紹介も認識論として基本的でたいへん面白いのだが、きりがないのでやめる。

 渡辺さんが、「ヒューマニズム」ということばよりも、むしろ「ユマニスム」というフランス語を用いたいという嗜好性は昨日紹介した。
 以下が、渡辺一夫さんの考える「ユマニスム」ということになるのだろう。

 ユマニスムは、別に体系をもった思想というようなぎょうぎょうしいものではけっしてなく、ごく平凡な人間らしい心がまえであるというのがわたしの考えです。そして、どのような人間の行動にも、また思想にも、ユマニスムがつき添っていたほうが好ましいし、人間の社会生活・個人生活の破綻は、かろうじて、それによって延期されたり、回避されたりするかもしれないと思っているのです。

 わたしたちは、狂気と無知と痴愚とのために、とんでもないおろかしいことをしますから、この三つは、なんとかして避けなければなりません。しかも、学識の点では衆にぬきんでるような人々が、どうかすると狂人のような考え方で行動することもありうるのですから、狂気と無知と痴愚とを警戒しただけでは安心なりません。むしろユマニスムという平凡な心がまえのことが、問題になるのです。


 たしかに、人間は、「どうかすると狂人のような考え方で行動することもありうる」。それも「学識」に関係ないどころか、”学識”があるとされている人たちが実行することが少なくない。たしかに「狂気と無知と痴愚とを警戒しただけでは安心」できない。

 本末を転倒した議論に対して、人間として問うことをやめてはならない呼びかけ。
 近現代においても、問い続けなければならない出来事が生まれている以上、問うことをやめてはならない呼びかけ。
 それが、次の問いであると私は理解した。

 それは人間であることとなんの関係があるのか。


 次は、原発事故を予言するかのような渡辺一夫さんの警告。
 

 自分らの幸福で健康で便利な生活のためにと思ってつくりだし、考えだしたさまざまなものの奴隷になりやすいのではないでしょうか。原子力を発見したり、人工衛星を打ち上げたり、月まで飛んでいけるような方法を考えだしたりした現代人は、自分が獲得した力や技術が、昔の人々が想像できなかったような巨大なものであるだけに、その力や技術の使用には、同じく昔の人々が想像できなかったような注意と責任とをもたなければならなくなっています。
 「狂人に刃物」というたとえがありますが、科学文明・機械文明の産んだものは、まさに「刃物」かもしれず、もしその「刃物」を人類の幸福のために用いることを忘れて、むやみと振り回すようなことになったら、人類はまさに「狂人」にほかならないといってもよいでしょう。そうなったとき、人類は、自分のつくったものに使われて破滅しかねないということにもなるでしょう。


 本書の最後のほうで、ふたたびセバスチャン=カステリヨンの言葉を渡辺一夫さんは引用している。
 たしかにセバスチャン=カステリヨンの言葉を繰り返し引用しなければならないほど、残念ながら我々は賢くない。
 

 「我々が光明を知ったのちに、このような暗闇へふたたび陥らねばならなくなったことを、後世の人々は理解できないだろう」


 著者が、このカステリヨンの言葉に対して、現代の私たちは、「そのとおり。聡明になったわれわれには、全然わからない。」と答えて「当然」なのに、「われわれにもわかる。われわれも大同小異なことをし続けているのだから。」と「答えなければならない」のだとすれば、私たち人間の愚かさとはどれくらいのものなのだろうか。
 幾度となく、「光明」と「暗闇」を見ているにもかかわらず、私たち人間は、賢いようで賢くはない。
 「暗闇」を経験しても、すぐに忘れてしまう愚かさを持ち合わせているのが人間だ。


 最後のほうで、渡辺一夫さんは、セナンクゥールという18世紀のフランスの作家の言葉を引用している。
 これも、原発事故を彷彿とさせる。

 人類は所詮滅びるのかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びよう。


 この引用に続けて、渡辺一夫さんは、以下の叙述で本書を締めくくっている。

 この「抵抗」はなにによってできるのでしょうか。少なくとも、金力だけでも権力だけでも完全に行われるものではありますまい。むしろ、


 「それは人間であることとなんの関係があるのか。」


 と問いかける人間の心根―この平凡で、無力らしく思われる心がまえが中心とならなければならないかと思われます。
 この心根、この心がまえを、あえて、ユマニスム、あるいはヒューマニズムと呼んではいかがであろうかと、わたしは考えております。


 フランス文学者のユマニスム考は、刺激的で、私には大変面白かった。