「五輪反対、戦前も64年も 上書きされる「国民的記憶」」

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以下、朝日新聞デジタル版(2021/7/26 12:00)から。

 東京五輪パラリンピックの開催に抗議の声がやまない。過去を振り返れば、1940年の「幻の東京五輪」や、成功のイメージが強い64年の東京五輪にも、反対の声があったという。五輪反対論の歴史をさかのぼると、現在の五輪はどう見えるだろうか。近代五輪に詳しい浜田幸絵・島根大学准教授(メディア史)に聞いた。

 はまだ・さちえ 1983年生まれ。東京経済大学大学院コミュニケーション学研究科博士後期課程修了。島根大学法文学部准教授(メディア史)。著書に「〈東京オリンピック〉の誕生」など。

戦前は「戦争に集中すべき」
 ――戦前(1940年)にも東京五輪が開催されるはずが、中止になったと聞きます。どんな反対の声が上がったのですか?

 当時、招致に動いた東京市長永田秀次郎)が思い描いたのは「皇紀2600年」(1940年が神話上の神武天皇の即位から2600年にあたるとされた)を記念する行事として、東京オリンピックを開催することでした。国威発揚が念頭にあったと言えます。

 しかし、遠く離れた西洋諸国からの参加者を受け入れる態勢や費用を心配して、「時期尚早」といった声が上がりました。また、日本の傀儡(かいらい)国家だった満州国の参加が認められなかったことも、国内の反発を招きました。

 ――中止にまで至った理由は?

 決定的だったのは、37年に始まった日中戦争です。鉄などの貴重な物資をオリンピックのために使うべきではなく、「物心ともに戦争に集中すべきだ」という反対論が、軍部や政治家の間で広がっていきました。38年6月には、戦争遂行に関係のない土木建築工事を制限する閣議決定もあり、競技場の建設が困難に。その翌月、政府が大会返上を発表しました。

 ――国威発揚が目的の五輪だったため、より大きな国益を重視する「上からの反対論」が優勢になったと

 そうです。ただし国威発揚は大きな目標ではありましたが、そのためだけだった、とは言えません。東京市長の永田は、オリンピックを通じた国際交流にも価値を見いだしていました。

 巨大な国際イベントであるオリンピックは、さまざまな思惑を持った人びとが関わり、一枚岩にならないまま前に進んでいく。当時もいまも、そんな側面があると思います。

64年は「時期尚早」
 ――64年の東京五輪は「大成功の大会」というイメージがありますが、やはり反対の声もあったとか

(後略)

(聞き手・上原佳久)