悔しい思い

 私に必要なものは強さであろう。たかが英語と一方で思いながら、結構真面目に取り組んでいる割に英語が掴めない。映画にしても、今日の「地獄の黙示録」など大敗であった。板坂元氏も書いていたが、映画のストーリーなど、結構人の顔を見てわかるのである。人の話を聞いている時は、顔がかなりの比重を占めるのだ。
松本道弘氏の本も何度読み直したことか。松本氏の場合の英語道場、アメリカ大使館のような戦いの場が私にとって必要なのだろう。何といっても甘えているのだ。アパートにいて、テレビを見て、映画を見ている分には、別段世の中の変化もない。speakingの力はこちらに来た時と比べるとかなりついてきたけれど、まだ生死の境にいるような逆境で力を出しているわけではない。何といっても弱い。英語教師に戻れば、日本語を駆使しながら、それなりに授業はもたせられるだろう。しかし、それでは、ますます自分を甘やかすことになりはしないか。
 英語ができず喋れないのも当たり前。英語ができても当たり前。どっちにしても当たり前だが、しかし、この「当たり前」の間は長い。言葉は空気。喋ることは空気と同じようなもので、意識しながら呼吸する人はめったにいない。しかし、この二つの当り前の間にいる人間は、どうしたら、息をうまく吸えて吐けるかと、常時意識しているのだ。どの道も険しい。しかし、英語の道も負けないほど厳しい。意識して呼吸する人の姿は端から見ても苦しいものだ。
 日本の自分のアパートで修行を開始する姿が浮かぶ。机の上の勉強、カセットテープによる勉強もいい。しかし、やはり、相手は動く目標だ。自分のアパートであれば、安心して勉強もできよう。甘えることも可能だ。しかしそれでは、いけない。
 喋れて当たり前と思うと、余計に悔しい。うまく喋れぬ自分が情けない。
 これ程悔しい思いをする学びもないのではないかと思う。喋れないのは当たり前と考えている人はよい。それはそれで良い。しかし、喋れて当り前という目標が生まれると、もういけない。苦しい。喋れるまで苦しみが続くのが見えるからだ。子どもは時間をかけて言葉を学ぶ。要求を通すには喋らざるをえない。だから、自分を甘やかせないためには、日本で外国人に会う必要がある。