日本語だって長い期間の学習でなんとかしてきたのだ

 日本語修業だって25年かかっているのだ。それでもまだ足りないのである。英語修業だって何十年かかっても不思議でない。死ぬまで学問だというのは易しいし、かっこいいが、仲々実践するのは、どうしてどうして、しかし、20歳ぐらいで2ヶ国語ペラペラというカッコいい奴はどこにでもいるものだ。日本語が25年かかるから、英語も25年というのは単純だ。真剣にやればもう少し短くなる。日本語でも英語でもFORも膨らむには変わりないので、その分、問題意識が膨らむからだ。
 しかし、これははっきり言って、かかり過ぎではないだろうか。日本語にしても英語にしても、何故かかり過ぎるか。言葉と人格の確立の関係を無視しているからだ。これは日本の教育の特徴かもしれない。勉強しても人間の幅が広がらないのだ。子どもでも知っている学校の勉強は、そこだけの勉強だと。
 私が真に日本語を学んだ場合は、クラブ活動、ゼミ活動、大衆運動であり、真に英語を学んだところは、外国人とのいわばゼミ活動である。学校教育が無意味だとは言わない。学級人数の多さなどの制約もある学校は基本型を教えるところだ。私の言いたいことは、学級天国にならず、絶えず、外とのつながりを考えるべきだということだ。すぐ社会に役立つという意味で、プラグマチックになれと言っているのではない。ただ学問のための学問、暇つぶしの為の暇つぶしを戒めているのである。この意味で日本の教育は大いに反省するところがある。特に高校教育は反省しなければならない。
 私が多少とも英語が喋れるようになるとすれば、英語の技術を除けば、問題意識と知識である。知識とは、FORであり、南アフリカアパルトヘイトだとか、アメリカ合州国の黒人問題、ヨーロッパの美術史、世界史・日本史、先進資本主義国における社会問題を知っていることである。そしてこれらの雑多な知識を統一し、整理をする私である。つまり、問題意識である。知識は力であるが、知っているだけではなく、自分として、何を表現するかが、何を表現したいかが最終的にモノを言う。これ無くしては何にもならない。そして、ここが弱いのである、日本の子ども達は。