大学では英語から遠ざかっていた

 前に書いたように、私は大学生活5年間、全くといってよい程、英語から遠ざかっていた。一通り単位を取らねばならぬ為、ラボなども出席はしたが、私自身の知的向上、ひいては人間の確立に役立つとはとても思えなかった。思うに、これは英語がいけないのではなく、教師や教材、教育方法論の問題だと今では思っているが、ともかく当時はクラブ活動、文化運動、社会科学のゼミの方が魅力があった。それは何故かというと、自分に欠けているものでそこにあったからだ。知識の詰め込みは高校時代にやったが、自分の頭で、何かを動かすために知恵を働かすことには慣れていなかった。やることと考えることがバラバラだった(これはもしかすると、日本の現在の教育の特徴かもしれない)。政治的な活動は手段であり、目的ではない。しかし私にとっては自己の確立に多いに寄与したのが、これであった。例えば、広島に行った。何かを喋らねばならぬ。広島の市民も言う。「君ら一体遠い東京から何しに来たのか」と。こう言われれば、黙っているわけにはいかない。自分の立場を明確に述べなければならない。例え述べても、相手が納得するかどうかは、保障の限りではない。つまり説得力(論理)が求められる。かくしてクラブ活動、その他大学時代の活動を通じて、私は先輩から、また書物から、どう話すべきか、どう論理構築すべきかを学ぼうとした。私に欠けていたものだからだ。もとより、一時期の学園紛争は下火になったとはいえ、私が大学1年の時にはいろいろな人に脅されたものだ。逃げたくなることもしばしばだったが、ここで逃げてはまた高校時代のひねこびた性格に戻ってしまうと思い、歯を食いしばって頑張った。
 今から思えば、これはディベートだったと言える。もとより政治活動は何かの目的ではない。それ自体が手段だ。しかし私にとっては自我の確立の為の手段という性格が強かった。それ程、高校時代、自我の確立から遠ざかっていたとも言える(日本の高校生はディベートに親しんでいない)。