英語の学力観の変遷と学習指導要領の責任

 次に指摘をしないといけない点は、学力観である。
私は、大学の附属校で英語を教え始めて3年目、27歳のときに初めての海外であるアメリカ合州国にわたり、サンフランシスコで英語集中口座を受けた。だから英語の教師になりたての頃から、2年間は、リスニングを鍛えないといけないと自学自習で耳を鍛えたものだ。実は私の通った大学でもラングエッジラボなどはあったけれど、大学時代は英語よりも社会科学の方に興味を持ってしまったから、きちんとトレーニングを積んだとはいえなかった。それで英語教師をしながら、自己トレーニングを積むしかなかった。アメリカ合州国滞在中も、教室の授業はもちろんだが、どちらかといえば、映画館やテレビ鑑賞が英語のリスニング力を鍛える私の「道場」だった。
これは、私の受けた高校のカリキュラムが、リスニング力などほとんど無視して、読解力と文法力を重視するカリキュラムだったから自分でリスニング力を鍛えないといけなかったわけで、読解力・文法力は基礎的なものくらいにおさえて、リスニング力やスピーキング力も視野にいれて鍛える現行のカリキュラムとは、大げさにいえば、その学力観が違っている*1
 リスニング力が伸びているのだから、その点では、現在の子どもは、そうした学力が育っていると評価してもよいくらいだ。実際、私の勤める高校では、高校時代から外国人講師との交流はできるし、リスニング力や英語での自己表現力を鍛えている。これは、私が高校生の時代にはなかったことだ。
 読解力や文法力の低下を嘆くのであれば、この学力観の差異の問題の論議を避けては通れない。そして、繰り返しになるけれど、学習指導要領の問題があるのである。

*1:この学力観の差異は、象徴的には、渡部・平泉論争に代表されるだろう。