「私説英語教育論」中村敬(1980)を読んだ。
初版は1980年のものだが、私のものは、1984年の第三版。
本書はすこぶる面白くためになる。
それは、戦後英語教育史を、単なる通史、より客観的で公平な記述にするのではなく、今日の問題にからめて重層的に、さらに社会的諸関係の中で英語教育を考え、「個人的」で「独断と偏見」に満ちた記述でつづられているからであろう。
たとえば、「金石範『ことばの呪縛』」の小見出しの箇所に次のようにある。
一般に言語について考える場合には大きく言って二つの側面がある。一つは、音韻体系、構文論、語彙論など、その言語の内面の構造に係わる問題であり、もう一つは、警護、表現法、ロジック、階層間の言語の違い、など、より多く民族文化と係わる問題がある。後者の領域は、言語社会学の射程に入るものであるが、この領域の枠組を拡げていくと、ことばと思想、ことばと政治、ことばと社会、ことばと人間、といった「ことば」に係わる巨視的な問題にただり着く。言うまでもなく、英語もことばの一つであるから、英語と長年付き合って来れば、当然、英語と思想、英語と政治、英語と社会、英語と人間、といった問題に関心を持ってもよいはずだが、今までのところ英語教師の関心はもっぱら英語の内部の構造に向けられて来た。公平を期するために申し上げれば、英米文学や語学を専門にされる学者諸先生の関心も総じてタコツボ的であった(あるいは、ある)と思う」(p.129-p.130)」
と述べ、加藤周一「信州旅日記-英語教育の問題ー」、福田恆存「英語亡国論」はもとより、ダグラス・ラミス「イデオロギーとしての英会話」、金石範「ことばの呪縛」などの問題提起にたいする反応を、英語教育界に期待するほうが無理な話だったと喝破されている。
何度も読んで参考にすべき本であると思う。