「日本人はなぜ英語ができないか」を読んだ

「日本人はなぜ英語ができないか」

 「貧困なる精神24集」*1を斜め読みしていたら、「最近読んで大いに共感を覚えたのは、言語学者鈴木孝夫氏の著書『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波新書)です」とあった*2。早速、「日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)」(1999年)を注文して読んでみた。
 鈴木孝夫氏の本は、これまで何冊か読んでいたが、「日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)」を私は手にしたことはなかった。

 外国語学習といっても、言語タイプが違うものを学ぶときには困難さが増すという事実があり、私自身若い時にサンフランシスコの英語集中研修でドイツ人やフランス人と一緒に英語を学ぶことを通じて痛切な体験をしたことがあった。語彙の学習にしても文化的背景の理解にしても、日本人は圧倒的に不利であるということを痛感させられた。そもそもアメリカ合州国自体が、”A nation of nations”というヨーロッパ諸国を中心として、フランス的要素やドイツ的要素と、たくさんの民族集団の要素から成り立っている社会であり、そこに日本的要素は少ないということを実際の英語学習を通じて身にしみて認識したことがある。
 たとえば、アメリカ人の外国語学習について鈴木孝夫氏は次のように紹介している。

 日本語はアラビア語と並んで、アメリカ人が習熟することの最も困難な言語とされ、学習に要する時間もフランス語やドイツ語の二倍は必要だとしています。(p.3)

 日本人が英語を学ぶときと、ドイツ人やフランス人が英語を学ぶときの違い。それは言語系統が違う点や、文化・宗教の違いによるもので、鈴木孝夫氏が言うように、「日本人に英語は難しい」のである。たしか言語学者田中克彦氏の著作で学んだことがあるのだが、日本人にとっては同じ言語タイプであるモンゴル語のほうがやさしいということになる。
 また、鈴木孝夫氏のいう「英語を知らなくても困らない」という日本の言語環境については、私自身痛感してきたことで、日本が大国か否かは別にして、以下の指摘は否定できない。

 国内的に見ればその必要緊急性が殆ど感じられないために大半の日本人にとっては真剣な習得意欲の湧きにくい英語を、日本の国が世界の大国になったばかりに、国際的な局面においてはそれこそ国益をかけて、それを上手にうまく使う、きわめて高い能力が当事者には求められるという、非常に両立させることの難しい言語的な立場に、日本人は立たされているのです。(p.5)

 こうした日本の言語環境の中で、鈴木氏は日本の状況を「自己植民地化」と問題提起する。


 外国に征服支配され強制された結果として外国文化を受け入れるのではなく、自発的に自分を外国のように作り変える現象を、自己植民地化(auto-colonization)と名づけました。(p.33-p.34)


この「自己植民地化」という用語は、以前紹介した池内尚郎著「民際英語でいこう―ザメンホフ先生、すみません」で紹介されていた。遅ればせながら、今回原著に初めてあたることができたということになる。

 「日本人はなぜ英語ができないか」の中で書かれている「目的言語」「手段言語」「交流言語」という概念規定、また「土着英語」「民族英語」「国際英語」という概念規定は、こうした用語を使うかどうかは別にして、英語学習や英語教えることを通じて、誰でもが認識しているところだろう。
 また、受信型や国際理解なのか、発信型なのかという問題提起も、きわめて重要であるし、日本人の相対的な自己規定の心理に関する指摘も刺激的である。
 意外だったのが、「私がこの本で言いたかったことの多くが、既に巧みな文章で述べられていて、ちょっとがっかりするくらいです」と断りながらされている中野好夫氏の次の引用である。中野好夫氏のこのくだりは私も以前読んだことがある。極めて重要な問題提起であることに間違いはない。

 「語学が少しできると、なにかそれだけ他人より偉いと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間の方がむしろ多いくらいである。」*3
 「英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手ほどよい。(中略)だが、忘れてならないのは、それらのもう一つ背後にあって、そうした才能を生かす一つの精神だ。だからどうかこれからの諸君は、英語を勉強して、流石に英語をやった人の考えは違う、視野が広くて、人間に芯があって、どこか頼もしい(中略)ような人になってもらいたい。
 語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の肝を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい*4。」*5(p.141-p.142)


 この問題提起は、英語教育・英語学習を考える上で基本的なテーマであり、はずすことはできない。

*1:本多勝一「貧困なる精神第24集」の副題は『「英語」という“差別” 「原発」という“犯罪”』。

*2:これは本多氏の2000年5月の論稿で、「日本人はなぜ英語ができないか」の発行年は1999年。

*3:中野好夫「英語を学ぶ人々のために」(1948年)より。

*4:『なぜ、「英語」が問題なのか?』の中で中村敬氏は、中野氏のこの「肝を抜く」という表現の文脈理解として、「表立って戦争に反対することができないほど腑抜けな人間を作ってしまう要素が外国語の習得にはある」と解釈されている。

*5:中野好夫、前掲書より。