CALLで提出した最終レポート

インターネットを活用した英作文講座

 以下は、CALLで提出した私の最終レポートの日本語要約である。来年日本に帰った際に選択講座として、こんな講座をやってみたいといういわば授業構想ノートだ。


英語でブログを開始して、地球時代にふさわしい交流をすすめよう


    1. 本選択講座の目的
    2. 日本の英語教育で考えないといけない問題
    3. 問題の分析と問題解決の方途
    4. インターネットが果たすべき意義と役割
    5. どこで電子友人を探すべきか
    6. 実際の指導・学習計画


1. 本選択講座の目的


 対象講座:選択講座
 科目:英作文
 対象学年:高校三年生
 受講者数:15名程度


生徒の受講目的
(1)インターネット時代にふさわしいリタラシー(作文技術)を身につける。本講座を通じて、コンピューターユーザ(Computer User), インターネットユーザー(Internet User)そして、ブロガー(Blogger)になることが求められる。
 (2)最初の段階は、クラス内で、のちには海外の友人たちと、電子メールやブログを通じてコミュニケーショのやりとりができる関係をつくりあげる。
 (3)コンピューターユーザー、インターネットユーザー、ブロガーになることを通じて、調査者(Rsearcher)、書き手(Writer)、そして思索家(Thinker) になる。ここでいう調査者とは、探索者や読み手という意味を含んでいる。ライターは、ブロガー、リポーター(Reporter)、コミュニケーター(Communicator)という概念を含んでいる。思索家は、探検者(Explorer)と分析者( Analyzer)という概念を含んでいる。
 (4)最終的には、違った視野や文化的視点でモノを見ることのでき、批判的にモノを考えられる人間(Critical Thinker)になることをめざす。


2. 日本の英語教育で考えないといけない問題


 英語が日本で必修であるということは、いい点と悪い点を持っている。悪い点のひとつは、英語を学ぶ際に学習意欲が高まらないということである。
 「何故英語なのか」と疑問に思う学生が当然出てくるから、学習者の学習意欲はそれほど高まらない。その一方で、なんとかして英語をものにしたいと思う学生もいて、彼らの場合は、英語を学ぶのにいささかの疑問もない。英語は世界で主流の言語*1と彼らは考えているから、英語を学んで当然と、考えているはずだ。
 けれども、このいずれの立場も、英語学習の動機づけとしてはあまり強いものではないと私は感じている。というのは、英語学習を当然視している学生であっても、その立場は、英語が「国際的言語」であるという今日主流のイデオロギーを無批判的に追随しているに過ぎないからだ。私は英語が「国際的言語」だとは思わないけれど*2、英語に対する彼らの基本的立場は、英語学習を楽しんでいるにせよ、基盤が脆弱で、確固としたものではなく、不安定な立場に思える。
 日本では入学試験が非常に競争的であるので、入学志願者は入学試験に合格するために英語を学んでいる。大げさに言えば、これだけが英語を学ぶ唯一の理由にも思える。
 英語に対するあこがれや行き過ぎた賞賛も、英語に対する否定的・消極的な立場と同様に、日本における英語学習の問題を、解決してくれるようには思えない*3
 私の経験では、外国語学習とは、時間のかかる一生の仕事だ。ゆえに、不安定な動機では、何も得ることができない。
 私の勤務校は、大学付属の高校なのだが、入学試験に受かるために、中学校、そして大半は塾でも英語を一生懸命勉強してくるが、通常、合格後は、学習意欲は萎縮してしまう。だから、潜在能力的に彼らは優秀な学生たちであるのに、言語能力として、その能力を引き出すことは容易ではない。
 90%以上もの学生が大学にそのまま進学していくので、学生たちは、いわば特権的な学生生活を謳歌できる。実際、彼らは学生生活をエンジョイしている。あらゆるスポーツにたけ、クラブ活動にも打ち込んでいる彼らを見ていると、日本の他の学生と比べてみれば、彼らは、相当の自由が許されている幸運な学生たちと言うことができよう。
 こんな自由な学校なら、さぞコミュニカティブアプローチが効果的であろうと思われるかもしれないが、確かに、オーラルコミュニケーションという教科目で、それ相応のコミュニカティブアプローチが導入されているのも事実だが、残念ながらこれらの時間は全体のカリキュラムの中で2単位しかなく、これ以上導入する時間的余裕がない。
 学生たちは、なんとなしに、いつの日か英語を話せるようになりたいという希望を懐いているが、その希望は、通常は実現することなく、虚しく消えていってしまうのが現実だ。これは一体何故なのだろうか。
 コミュニカティブアプローチが成功するためには、いくつかの条件が必要であると私は考えていて、実は、こうした条件が日本には存在しないように思える。
 私の考えるコミュニカティブアプローチの成功条件とは、例えば、以下のようなものである。


 (1)日常的に英語を話さないといけない言語環境がある
 (2)英語を流暢に話せる日本人がまわりに相当数いる
 (3)英語を話すということが一体どういうことなのか、学習者がよく理解できている
 (4)学習者が外国語をモノにする戦略をもっている
 (5)将来自分は英語を話せるようになると学習者が固く信じている
 (6)日本の英語教育に対して、学習者が否定的な考えを持っていない


 「交流を求める外国語教育」という一文をその昔書いたことがあるが、「交流を求める外国語教育」という考え方自体、ひょっとして英語教員自身にとっても、日本ではむずかしいのかもしれない。大変奇妙なことに、それ相応の言語能力を持っているにしても、日本では、英語教員ですら英語で交流をする機会がめったにないのである。
 日本は、地理的に、そして言語的にも世界から隔絶している*4と、長年私は思い続けてきたが、我々は常に日本語を話しているから、日本では英語などいらないと思えるほどだ。これは単に言語環境的事実の問題に過ぎない。
 日本はアジアに位置しているにもかかわらず、第二次世界大戦中、日本軍がアジア諸国を侵略した。この戦禍からわれわれは教訓を引き出し、1945年にいわゆる平和憲法を制定したが*5、今日なお日本の市民はアジアに個人的な友人が少ないのが現実である。
 今日、日本には、日本人が避ける傾向にある仕事を受け持っているたくさんの外国人労働者がいるが、通常彼らはほとんどかえりみられず、メディアによってもあまり取り上げられることもない。ある意味では、彼らは「見えない」存在である。こうした誤った態度は、とりわけ教育を通じて、改善されないといけない。
 実際は日本と世界はさまざまな関係をもっていて、他国との協調関係がなければ生きていけないのだが、言語的に隔絶している我々からすると、国内で全部済ますことができるような印象があり、多少は強い円のおかげで、世界を旅行することができても、外国で何が起こっているのか、我々の大半は疎いのが実情だ。ゆえに英語学習は、抽象的なリハーサルに過ぎないか、退屈なゲームになってしまっている。英会話教室なるものは巷にあふれていて、いわゆる「英会話」を高い授業料を払って学んでいるけれども、大方の受講者は、ネイティブスピーカーと接触を持ちたいということに過ぎない。
 コトバというものは多くの間違いを経て習得されるものであるのに、日本の恥の意識の文化のために、完全主義に陥ることも多く、この意識が、英語のよき話し手となることを妨げてもいる。


3. 問題の分析と問題解決の方途


 日本における英語教育の問題点に対する私の基本的立場は、語彙力においても文法力においても、学生の大半はかなりの程度まで能力を持っているという立場である。彼らは潜在的に、いい英語の話し手になりうる可能性を持っているが、残念ながら、それを使う言語的環境、つまり機会に恵まれないという問題があるように思う。交流する機会の欠如が、英語においても良いコミュニケーターになれる可能性を阻害している基本条件になっているのである。潜在能力が顕在化しうる機会が与えられていないと言い換えてもいい。
 学生は英語を使う機会を与えられていない。これが問題の核心であるのであって、したがって、これは学生の責任でも、教師の責任でもない。
 さて日本でも、海外でも、それがどこでも、英語を話す充分な機会が、ある日本人に与えられているとしよう。それは、おそらくその人たちが特権的な位置にいることを意味する。私の観察では、英語を話す環境が日本国内にあるとすれば、それは不自然で、ゆえに高価であり、ときに植民地的であり*6、かなりマニアックでもあって、おそらく「おたく」的だ。
 日本における言語状況は、ダグラス=ラミス(Douglas Lummis)氏によって書かれた「イデオロギーとしての英会話」(‘English Conversation as Ideology’)に、うまく叙述されている。この小論は、かなり昔に書かれたものだが、ここに書かれている描写は今日の日本にも充分当てはまる。
 繰り返しになるけれども、私がこれまで書いてきたような言語的環境がごく自然に与えられているとすれば、学生は流暢に英語を話せるようになると思う。彼らには潜在能力があり、話す機会さえ与えられていれば、よき英語の話し手になれると、私は信じているからだ。
 けれども、これを実現しようとなると、学生は、モノがよくわかっている戦略的思想家(strategic thinkers)にならないといけない。なぜならば、この小論で書いてきたように日本で英語を学ぶ際に生じる特定の困難を乗り越えないといけないからだ。そして、再び繰り返しになるけれども、英語を実際に使う言語的環境が学生に与えられないといけない。
 日本で、英語を話せるようになるためには、英語をモノにするための考え抜かれた戦略と、実際に話ができる言語環境、この二つが決定的な役割を果たすだろう。


4. インターネットが果たすべき意義と役割


 私がこれまで述べてきた日本が抱える問題状況のひとつは、インターネットが持っている可能性が解決してくれるように思う。その問題状況とは、日本の言語的鎖国(隔絶)状況である。
 日本で何十年間も私は英語教師をしてきたけれども、実は私自身、英語学習の一般的重要性を認めたことがなかった。これまで分析してきたように、我々の社会が言語的鎖国状態であるために、学生が「英語を勉強して何になるの」と質問することに妥当性があり、英語学習は、ある意味において日本では意味をなさず、そうした考え方を私は否定することができなかったからである。
 しかしながら、10年ほど前より、日本でもインターネットが活用できるようになってからは、言語的鎖国状態などとは言えなくなってきた。インターネットは、遠く離れて暮らしている人たちをも近づけ、インターネットが忽然と登場してきてからは実際に世界は縮小してきている*7
 日本で英語をマスターするためには、英語への接近が昔はそれほど簡単なことではなかったから、たくさんの時間や労力やお金が必要だった。日本で英語は、大変めずらしく貴重なものだったのだ。私の若い頃の経験でも、当時結構な値段がしたし記事を読むにもかなりのタイムラグがあったけれど、船便でサンフランシスコエグザミナー紙(San Francisco Examiners)を購読したり、 10代向けのファッション古雑誌を買ったりして、「好きなもの」(‘turn-ons’ )や「嫌いなもの」(‘turn-offs’) という語彙を学んだ経験がある。
 しかし、最初は電子メールだけだったけれども、インターネットのおかげで、話し相手を見つけることはそれほどむずかしいことではなくなってきた。共時的なやりとりではないし、時差もあるから、電子メールでの交流は便利であり、楽しくもあった。こうした電子メールを通じて、互いに考えていることをいとも簡単に交流できるようになったのである*8
 電子メールのあとは、ウェッブ(World Wide Web)が登場し、インターネットを通じて、図書館データや各種アーカイブ、文献資料、新聞、ラジオ、テレビ、他のさまざまなメディアと、膨大な資料にアクセスできるようになった。
 したがって、日本がこれまで抱えてきた言語的鎖国(隔絶)問題は、今日インターネットを使うことで、徐々に解決されるようになってきている。それも、不自然なかたちではなく、ごく自然なかたちで*9
 私は1990年よりコンピューターを使っていて、1992年には、合州国西部をパートナーと一緒に車でまわり、当時電子メールで交流していた教師たちを訪れたことがある。
 1999年には、家族と一緒にアイルランドを車でまわり、2001年には娘とハワイ島を訪れた。2003年には、息子と一緒にタスマニアメルボルンを訪れ、また2004年の3月には、パートナーと娘と一緒にニュージーランドを訪れ、その後ひとりでオーストラリアのブリズベンを再訪した。けれども、公私ともに忙しく、こうした時期にはインターネットを活用した旅は、したくても時間的余裕がなくてできなかった。けれども、仮にインターネットを活用して、現地の人たちと交流を深めることができていたら、こうした旅がもっと素晴らしいものになったであろうことは想像に難くない。
 その一方、こうした忙しい時期であっても、2002年の2月にアメリカ合州国の、あるメーリングリスト(mailing list)にイギリス語を使って参加し、またこの7月には、日本語で試しにブログを始めて、自分のホームページを書き始めている。
 コンピューターを使った言語学習(CALL)で、私が興味があるのは、コーパス言語学(corpus linguistics)で、特に、キーウィックコンコーダンス(KWIC concordance)に興味があるのだが、残念ながらこの分野は私自身まだ充分に深められていない。
 さて、インターネットのよい点ばかり書いてきたけれど、インターネットの問題点や危険性も同時に書いておかないといけない*10
 インターネットの世界は、いわばヴァーチャル(virtual)だから、信頼性が極めて薄い。またコンピューターというものは、基本的に、時間や労力、そしてお金を浪費するものだ。ときに、テクノストレスすら感じることもあるだろう。
 ところで、私がここで任を負わなければいけないことは、教育活動である。現在計画を練っているものは、選択講座を開設することで、その講座では、英作文をやることになるけれど、インターネットを活用して学外の人たちと生徒がやりとりをすることになるために、いろいろな事項を適切に、教育的に、注意深く、検討しなければいけない。
 まず第一に考えないといけないことは、私が担当する学生と海外に住む学生との間における、平等で、信頼に足る関係性を確立することである。これが、なんといっても教育的に重要である。
次に、本講座の土台や背景に、平和教育、人権教育、環境教育、多文化主義、多言語主義、こうした概念が検討され、含められなければならない。
 とりわけ、「アジア諸国と日本」「太平洋の中の日本」*11オセアニアと日本」のような重要なコンセプトは、大切な視点になりうると思われる。
 さらに、二重言語(bilingualism)という視点から、英語を学ぶことはとても重要で、この意味では、ニュージーランドマオリの運動からその基本的言語政策を学ぶ必要があると私は信じている。
最後に、英語の母語話者は、自分達の母語が英語であるということから、世界、とりわけ巨大な英語圏において情報が取りやすく、その意味で多くの利益を得ていると思われるが、その一方で、もし彼らがイギリス語だけにとどまるならば、異文化から学べる大切なものをひょっとして失っているかもしれないと考えることが今日、重要な時代基調のように思えてならない。
 今、このように考えることが大切で、インターネットの時代、さらにいえば地球時代、「核時代」(Nuclear Age)にあっては、英米中心の時代は終わらせて、互いに歩み寄る相互理解が必要不可欠な時代状況なのではないかと考えている。


5. どこで電子友人を探すべきか


 さて、私の担当する学生たちは、どこで電子友人を探したらよいのだろうか。
 もしそれがオーストラリアなら、クイーンズランド州あたりが適当かもしれない。理由は、気候、多文化主義日本語教育平和教育*12などだ。
 もしそれがニュージーランドなら、ワイカトのハミルトンはどうだろうか。理由は、マオリ文化、二重言語主義、多文化主義、市民活動、ワイカト土地戦争のフィールドワーク、ロトルア、シーフード、ラグビー、アウトドアなどだ。
 現在、私はハミルトンに住んでいるので、ハミルトンの高校を訪問して、私の担当する生徒たちの電子メール友人になってくれる可能性があるかどうか、教師たちに聞くこともできる*13
 ここで私が強調したいことは、私の指導下で、電子メールの交流をさせるのであるから、学校間で信頼に足る関係性をつくりあげることが、とても大切であるということだ。
 最初の段階では、練習のようなかたちで、15人ほどの日本人学生間や私との間で、英語による電子メールでの交流がよいだろう。そしてその後は、適切な時期をみはからって、教室の外へ、世界に飛び立つという構想がいいだろう。
 外との交流に対して、躊躇したり、遠慮がちな生徒がいれば、励まして、海外の生徒との交流をすすめさせたいと考える。


6. 実際の指導・学習計画


(1)学生
 対象学生:高校三年生
 学生数:約15名


(2)ソフトウェア
 1)電子メールソフト(アウトルックエクスプレスなど)
 2)ブラウザーインターネットエクスプローラーなど)
 3)ワープロ(ワードなど)
 4)電子辞書*14
 5)コンコーダンス)*15


 (3)2005年の授業回数*16(1時間=50分)


 4月 3回
 5月 3回
 6月 3回
 7月 2回
 9月 3回
10月 4回
11月 3回
12月 1回
  1月 特別講義
  2月 卒業式
  3月 ※海外研修旅行*17


 (4)具体的指導内容


a.英語における作文技術(電子辞書、コンコーダンス検索エンジン(search engines)、WWWを活用することも含めて)
b.電子メールの使い方。受講生、教師、海外の電子友人との送受信
c.英語でブログ(Fotolog*18を用いる予定)開始。(デジタルカメラの使い方、画像処理、画像のアップの仕方を含む)
d.お気に入りメーリングリスト、お気に入りニュースグループ、お気に入りURLを探す
e.個人情報の管理の仕方


 本講座で特に生徒にやらせる具体的な活動で、目標にしていることは、以下の通り。


 a.英語でブログを開始し継続させる
b.英語で電子メールのやりとりをさせる
c.生徒一人ひとりの個人的な興味を掘り下げさせ、深めさせる
d.レポート課題として、講座の終了時に、本講座を通じて学んだことを日本語で書かせる


(5)使う道具とキーワード


 (a)インターネットユーザーになるために


email
email address
mailing list
news group
browser
net surfing
blog
rss
aggregator
network etiquette
managing personal information


 (b)コンピューターユーザーになるために


typing software
touchtyping
word processor
managing files
degital camera
graphics


(c)ブロガーになるために


Fotolog



 (6)電子メールでの交流案

  • モデル1 相手が決まっていない場合、どういう相手が望ましいか生徒に考えさせる
  • モデル2 相手がすでに決まっている場合
    • 電子メール友人の組み合わせを考える
    • プロジェクトを立ち上げる
  • モデル3 相手がすでに決まっていて、現地に訪問に行く予定がある場合
    • 行事を計画する
    • プロジェクトを立ち上げる


 (7)最終課題


 最終課題として、本講座で学び発見したこと、とくに英語での交流やブログ開始での経験をもとにして、レポートを書く。補足資料として、相手とやりとりをした電子メールのサンプルを添付する。そのためには当然、相手から許可を得ておく。
 この課題は、日本語で書くこととする。

*1:英語のように、世界において、主流の、すなわちメジャーな言語ということは、支配的な大言語であることを意味する。

*2:とくにビジネスにおいて、英語が便宜語であることを私は認めているけれども、「国際語」であると言われると、我々にとってフェアではないという点で、かなりの抵抗を感じる。その個人にとって外国語学習はライフワークに近いものがあり、どの外国語を学ぶのかは当事者が決めるべきであって、その選択権は基本的人権にもかかわるものであると考える。ただ、現状を肯定する立場で考えるならば、日本の学生が英語を学ぶのは、マイナスばかりでもない。理想論としては、多文化主義と多言語主義をめざすべきであり、現実路線としては、おそらくバイリンガリズムがその妥協点に違いない。

*3:私の観察では、日本人は、多かれ少なかれ、「外国人嫌い」(‘xenophobia’) か、「外国人好き」( ‘xenophilia’ )という二つの症状を呈している。ヨーロッパ系白人に対してはゼノフィリアで、それ以外の人間に対してはゼノフォビアという基本傾向を除けば、これは元来日本人が人種差別主義者であるということではなくて、国内で外国人に出会うことが極端に少なく、単に慣れていないために、その無邪気さが原因で生じている症状ではないかと思う。差別意識であることに変わりはないが、いずれにせよ、日本人は、このゼノフォビアとゼノフィリアから自由になることが大切だ。

*4:ここでいう言語的隔絶とは、歴史的には、朝鮮語や中国語、そしてアイヌ語の存在を無視できないし、そして近年ではポルトガル語や他の言語の存在はもちろんあるけれども、日本国内のコミュニティレベルでは、外国語がほとんど通用しないし、さまざまな日本語の方言があるにせよ、日本語が支配的言語であるという状況をさして用いている。

*5:大変嘆かわしいことに、侵略戦争からつかんだ教訓をもとにしてつくられた平和憲法に反する誤った考え方や行動が最近の日本では目立ってきている。これではアジアに友人がつくれないのも当然だ。

*6:成城大学の中村敬氏によれば、日本の英語教育が植民地的であると戦後初めて喝破されたのは、小田実氏であるとのことだ。

*7:いわゆるグローバル化を手ばなしで喜ぶわけにはいかない。それは英語の一元化のもとでのグローバル化であるからだ。ひとつの民族言語が世界的に通じることの問題、いわゆる「英語問題」は、成城大学の中村敬氏の研究から英語教師は深く学ばなければならない。

*8:インターネットの紹介本としては、「データベースを使いこなす―英語でとる世界情報 (講談社現代新書 (765))」高田正純(講談社現代新書)1985年が、古典だったように思う。当時パソコンはとても高価で、この本を読んでから、ようやく5年後に生まれて初めて私はパソコンを購入することができた。

*9:「ごく自然なかたちで」との記述は、グローバル化の危険性と英語の一元的支配の問題を軽視しているという点で、甘すぎるかもしれない。

*10:ここでは、とりわけ、英語による一元的支配の問題の指摘が抜けている。いわゆる「英語問題」については、中村敬氏の一連の著作を参照して欲しい。たとえば、「なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論」「外国語教育とイデオロギー―反 英語教育論」「英語はどんな言語か―英語の社会的特性 (英語教育叢書)」「私説英語教育論」など。

*11:「太平洋の中の日本」とは、ハワイ諸島イースター島アオテアロアの、ポリネシアン文化圏の中の日本ほどの意。

*12:オーストラリア本土からは離れてしまうが、ココダトレイル(Kokoda Trail)などの戦争跡地、フィールドトリップにも取り組める。

*13:ハミルトンには、Hamilton Boys High, Hillcrest High, Hamilton’s Fraser High, The Melville High, Fairfield Collegeなどの高校がある。

*14:現在、私はワープロ用に英辞郎を用いているが、電子辞書は勉強不足で何がお薦めなのかわからない。

*15:コンコーダンスは、今回の海外研修で深めたいテーマのひとつなのだが、残念ながら未だ不勉強でよくわからない。

*16:ここでの回数は大まかなもので、確定的なものではない。

*17:3月の海外研修旅行は将来構想として考えている段階で、検討課題がたくさんあり、実際の実現は先にならざるをえない。

*18:FotologのURLは、URL: http://www.fotolog.net/