英語学習の技術と思想 -超大言語を学ぶときの留意点ー

 日本社会は単一民族で単一言語などと考えているわけでは全くないが、相対的に世界をみるならば、日本の言語環境*1は、アジアの外国語は別にしてヨーロッパの外国語を学ぶ上で条件が整っている言語環境とは言い難い。もちろんそれが不幸せだとか不便だとか言っているわけではない(逆かもしれない)。つまり価値判断ではない。しかし、日本の秘境的言語環境*2は、日本の外国語教育を考える際の重要なポイントのひとつであることは間違いない。うまい例えではないが、雪山のないフィールドに住んでいるのになんとかスキーをマスターしようとするような距離感と抽象度と徒労感とがある。
 英語という外国語を学ぶ上で、日本の言語環境には、リスニング・スピーキングという言語活動が言語環境として整っていない。だから留学でもして現地に行かない限り、日本で外国語を学ぼうとすれば、不自然にであっても、疑似的にであっても、言語環境を持ち込まないとならない。それがインターネットの時代にあって少し持ち込みやすくなったということなのだろう*3
 技術的なことに限ってだが、コトバの学びとして、YouTubeで「なんちゃって語学留学」と書いた*4のはそういう意味だ。また不自然で人工的な学習環境としてではあるが、シャドーイングのセットアップについても紹介した*5が、技術面だけに限って書くことは、自分の問題意識からしてみると、きわめて居心地が悪い。
 それは、コトバにおける思想の問題を捨象しているからである。
 私大付属高の英語教師を長年やってきたけれど、英語を学ぶのが当たり前という風潮にも居心地の悪さを感じていた。
 そうした認識は、同じくコトバをめぐる思想の問題を無視・軽視しているからである。
 かけだし英語教師時代、校費でサンフランシスコにて英語集中講座を受けたことがあった。以来、英語教師としての力量が足りないと痛感した私は、夏休みになると、なるべく海外体験をすべく自費で出かけた。合州国タオス・プエブロアイルランドシンガポール。ハワイ島。再度留学の機会を職場から与えられアオテアロアニュージーランド*6では、英語以外に、モノにならなかったけれどマオリ語も学んだ。
 タオス・プエブロなどのネイティブアメリカンは先住民であり、自分の文化も言語もあるにもかかわらず、英語で“文明化”された。アイルランドも、アイルランドゲール語があるにもかかわらず、イングランドに支配され、英語化された。アオテアロアニュージーランドにおいても、土地戦争があり、マオリ語では経済的に生きていけないと英語を学ぶことが推奨された。ハワイやシンガポールもしかり。そもそもイングランド語というブリテン島の一言語が今日世界的規模で広がっているのは平和に広がっていったわけではない。当然、押しつけられた側は、自らのアイデンティティを求めて、自分の言語を復活させたり、守り維持したり、公用語化運動を起こして実現させたのも当然のことだ。現在の日本語と英語の関係も、こうした文脈でとらえる必要がある。日本の英語教育の未来を考える際にも参考にすべきことがたくさんある。
 広くいえば、言語教育となるのだが、外国語教育は、母語教育との関連で考えないといけないし、母語主義という言語権*7を不可欠なものとして意識しなければならない。これらは、政治がどのように文化を保護するかという政策的課題はありながらも、政治ではなく、教育・文化的にとらえる方法論といえる。政治的にみれば、進歩とはなにか、文明とはなにか、グローバリズムとは何か、生徒に考えてもらいたいし、支配・被支配関係の中で自然発生してしまう優越意識や差別意識を考えさせ、対等・平等をめざす理想を視野に入れさせたいと思う。
 外国語教育・外国語学習は、中立的なものではない。外国語の学びは、食うか食われるか。文化闘争の側面が避けられないのである。
 明治期の終わりに、夏目漱石は、日本人の英語力の低下について、日本の教育が発達した結果であって当然のことだと。というのも教科を外国語で学ばざるをえない時代を経てきたから(それ以前は答案すら英語で書いていた)。これは独立国家としては「一種の屈辱」だと。「学問は普遍的なものだから…日本人の頭と日本の言語で教へられぬと云ふ筈はない」と喝破した(「漱石全集 第16巻」)。
 今日、外国語教育とうたっているにもかかわらず、その外国語とは何を指すかといえば英語だと、英語主義が跋扈している状況がある。
 しかし、その一方で、政治的でなく、文化的に考えるなら、今日の世界は、多言語主義・多文化主義ではないのか。
 世界には、たくさんの言語があるが、個人としてみれば、母語が大切であることは間違いない。もちろん文化的にも寄って立つ言語が大切であるのは間違いないのだが、不公平なことに、政治的には言語間には格差があり、いわば階層化が存在している。中国語などを入れた大言語の中でも、英語は飛びぬけた超大言語だ。同じ英語の中でも、大英連邦の中においても、またブリテン島の中においても、さまざまなアクセント(訛り)があり、イギリス英語とアメリカ英語が最上階に位置しているということになるのだろう。
 ところで、外国語というものは簡単には身につかない。英語と日本語のようにタイプの違う言語は、とくに時間がかかる*8。これは学んだ英語の成果より苦労した経験自体の体験のほうが人文的に役に立つのかもしれないと思えるほどだ。そうした状況下にあって、アウトプットとしての英語モデルも、われわれは何を英語モデルとし、どのような英語を目標とすべきかもあいまいだ*9。さらに自動翻訳機などの発展により文化的に、教育的に、どのような力を生徒に身につけさせるのか、あらためて考え直さなくてはいけない。
 さて、ここでひとつの問いがある。

 日本の教育は、教育の論理で考えられてきたのだろうか。日本の教育が、経済界や政治に牛耳られてきた歴史と傾向はないのだろうか*10
 「英語社会学」を提唱されている中村敬氏*11は、「英語がもっている問題点をもっぱら言語内の問題として論ずるのは不十分」だと、英語問題を克服するために、全員対象の英語教育を止めるべきという「対抗理論」と、大言語のもっている力(大言語性や侵略性)を自己流の英語で削ぎ無力化させる「空洞化理論」を提唱され、たとえば「自分で英語を使って、なおかつ自己流であってもそれを使うことによって、母語者の言説を乗り越える、あるいは口頭で説明できる、そこまでいかないといけない」と主張されている。
 私自身、長年英語の教師をやってきて、負の側面が強いと感じてきたいわゆる英会話イデオロギー*12や、英語をやるのが当たり前という思考停止状況の英語主義論に加担することなく、英語を学ぶことを通じて文化の深層に触れる正の側面の方向をめざそうと心がけてきた。教育は教育の論理で、思想性や文学性のゆたかな教材を、民主的でヒューマニスティックな思想や文学作品を選ぶことを心がけてきたつもりだ。
 英米英米と騒ぐわりに、われわれは、どれほど英米を理解しているのか。思考停止状態での拝外主義に陥っていないか。もちろん、排外主義になってもいけない。拝外主義と排外主義、いずれのハイガイ主義にも組みせず、対等・平等な関係をめざす。これが文化的・教育的立場と考えてきた。
 これからの市民に外国語のひとつくらいは具体的なものとしてマスターしてもらいたいと考えるのであれば、ライフワークの視野で考えなければならないほど長時間かかる外国語学習には、せめて当事者にその選択をさせるべきだ。
 英語教育・英語学習を、外国語(EFL)として、また第二言語(ESL)として考えた場合、言語環境を補うための視聴覚環境、メディアセンターを備えた図書館のようなものが必要だろう。日本は、もっと教育費を充実させて、教師の研修と教育環境を充実すべきであろう。
 さて、小学校・中学校・高校・大学・大学院と、英語教育の体系を考えるべきだが、小学校では、より母語に集中すべきだろう。中学より外国語教育を始め、多言語主義・多文化主義でいくために、英語に限らず、生徒に選択させることが適切と考える*13。他の外国語の場合も同様だが、カリキュラム化については国民的論議が必要なことは言うまでもない。

 まとめてみる。

 理想の英語教育においては技術と思想をかねそなえて教えるべきとずっと考えてきた。

 英語学習の技術とは、言語学習としての文法習得と言語活動の導入。言語活動では、聞く、話す、読む、書くの4技能の基礎を習得させたい。言語活動の習得は簡単ではないが、リスニング・リーディングにおいてSVという「語順の征服」をはたし、リーディングにおける「理解のともなう音読」の練習と修得後に、スピーキング・ライティングにおける自己表現へと発展させたい。「なんちゃって語学留学」とシャドーイングについては前回紹介したとおりである。

 さて、英語学習の思想とは何か。

 「思想なんて必要ない」「ただマスターするだけ」と言われるかもしれない。

 わたしの考える思想とは、なにか特別なものではなく、「かけがえのない母語」という母語主義の思想。言語と民族をめぐる抑圧と差別に反対し、対等・平等を求める思想。大言語を学ぶ際の注意として、民族的誇りを傷つけられたり、主体性を奪われてはならないという思想。地球時代(核時代)に生きる私たちが多民族と連帯し豊かな人格として成長するために簡単なコトバで深い内容(思想)*14を表現したいということを含んでいる。教育を考える上で、当たり前で基本的なことと考えている。あくまでも学校の英語教育が目的とすべきは、人間教育の一環、リベラル・アーツであるべきと考えているからだ。

 英語シャドーイングや英語スピーキング練習は、国民全員がやるべき課題なのか、とりわけ国民全員が母語話者の水準をめざすべきなのか(当然不可能)と問われれば、私見では、選択的・限定的に考えている。

 誤解されては困るので、以上、書き記した。

*1:シンガポールのように、英語は母語ではないのだが、学校教育や自治体、メディアやコミュニケーションで広く英語が使われている国々のことを、伝統的にESL(English as a second language)の国という。日本のように、英語が、学校教育や自治体、メディアやコミュニケーションで使われてはいないが、学校で英語を学んでいる国のことを、EFL(English as a foreign language)の国という。学外で英語にさらされる機会に違いのあるESLとEFLの国々では、英語の必要性も違っており、英語の指導法に違いがあるのは当然のことである。以上が大前提である。

*2:日本では、外国語学習に実際に格闘したことのない人が、これからの日本人は外国語ができないとだめだと安易に小学校への英語教科導入に賛成したりする。これは危険だ。なぜか。日本人は外国語を話せるようになるということが一体全体どういうことなのか、自分には手がかりがなく、想像もつかないから、たとえば英語の功罪について鈍感にならざるをえない。そうした中で言語政策が決定され進行していくリスクはどう考えたらよいのか。母語の重要性はマオリから、イギリス語を使いこなす姿勢はシンガポールから学べ - amamuの日記 (hatenablog.com)

*3:ツイッター社がイーロン・マスク氏によって買収され半数近い社員が解雇されたというニュースが最近かけめぐった。インターネットの民主主義を信頼し幻想を持ちすぎることはよくない。批判的にみる視点が必要に思う。

*4:YouTubeで安全・安心・安価に「 なんちゃって語学留学」 ーそのオンライン英語学習時間割を空想してみたー - amamuの日記 (hatenablog.com)

*5:英語シャドーイングが楽しめるPCのセッティング ーヘッドフォンとイアフォン・マイクを使ってー - amamuの日記 (hatenablog.com)

*6:ニュージーランドの呼称については、アオテアロア・ニュージーランドと母語の重要性 - amamuの日記 (hatenablog.com)

*7:母語を話す権利 - amamuの日記 (hatenablog.com)

*8:「今後は英語の勉強に“びた一文”かけない」 自動翻訳研究の第一人者が語る最新の「翻訳力」(1/3)〈dot.〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com)

*9:英語を話すことを目標にする場合、少なくともその英語のモデルをどのように設定すべきか、モデル設定の問題がある。古くは小田実氏が提唱されたイングラント(1961)、鈴木孝夫氏のイングリック(1971)、渡辺武達氏のジャパリッシュ(1983)など提唱されてきた。「民際英語」というのもある。池内尚郎氏の「民際英語でいこう」を面白く読んだ - amamuの日記 (hatenablog.com)

*10:一例に過ぎないが、都立高校の入試に瑕疵の多いスピーキングテストを導入しようとしているのは、教育を、教育の理念ではなく、一企業の利権や政治がらみでしか考えていない証左のひとつであろう。

*11:「迷走する英語教育をただす -中村敬の理論・思想・実践をもとに」を読んだ - amamuの日記 (hatenablog.com)

*12:たとえば、すでに古典ともいえるダグラス・ラミス氏の「イデオロギーとしての英会話」を参照のこと。

*13:戦略をもって多種多様な外国語教育を - amamuの日記 (hatenablog.com)

*14:気候変動、環境問題や平和やLGBTQなどの問題について。