母語の重要性はマオリから、イギリス語を使いこなす姿勢はシンガポールから学べ

 個人的に私は、母語の重要性をマオリから、そして、母語を大切にしながらも*1イギリス語を話す姿勢をシンガポールを「反面教師」として、学ぶべきだと思っている。
 一般的に言って、日本人はこの両方ともわかっていないと思うからだ。
 だから、少なくともこれら二つのことがわかっていない段階では、小学校の英語教育に私は反対である。
 日本人は、親の世代で、自分たちは英語ができなかったから、せめて子どもたちには英語を学ばせたいと思っている親が少なくない。こうした場合、「まず、お前がやれ」と私は言いたい。自分がやらずして、英語を子どもに押しつけることに、まず私は反対だ。
 こうした日本人の一般的言語意識は、マオリから見たら、一体全体どのように映るのか、少しは考えたほうがいい。
 何回かこのブログでも書いているけれども、マオリ語のたどった歴史から日本人が学ぶことは少なくない。
 マオリ語の将来に悲観した祖父母の世代は、自分たちはマオリ語を話すけれども、その子どもたちにはマオリ語を捨てさせて英語を話すようにさせた。だからその子どもたち、今の親の世代は、英語世代だ。1980年代からのマオリルネッサンスで、いわばマオリ語復興運動をおこして、その子どもたちの世代には、コハンガレオというマオリ語による幼稚園と、マオリ語によるトータルエマージョンスクールを始めた。だから、今の子どもたちはマオリ語世代と言える。
 日本人は、こうしたマオリの世代間の言語的ねじれについて考えたほうがいい。そして、母語でコミュニケーションがとれる自らの言語環境のありがたさを感じるべきだ。
 そもそも、真剣に外国語学習を体験したことのない人が外国語学習の意義を説くのは危険だ。
 大体、日本人は外国語を話せるようになるということがどういうことなのか、よくわかっていないと思うからだ。
 これは、おじさんが英語を話す、おばさんが北京語を話す、いとこはマレー語を話すというような多言語主義的言語環境でない日本にあって、ある意味で当然なことなのである。
 外国語学習は、文化衝突を大なり小なり含むから、外国語学習は魂が抜かれるかもしれない危険な取り組みになりかねない。とりわけ英語という大言語は、植民地主義的ではない、対等・平等の立場で、真に国際主義的な姿勢で学ぶことは想像以上にむずかしい。
 「国際化」だの、「グローバリズム」だののおまじないに騙されずに、自らの選択で学ぶということと、母語とは違って人工語にしかならない外国語の場合、モデルをイメージすることがむずかしいのである。
 アジアの中心に位置する貿易の要であるシンガポールは、イギリス帝国主義日本帝国主義の狭間にあって、歴史的経緯はいろいろあるが、要するに、よりましなイギリスを選択し、その結果、言語的には英語にやられることを積極的に推進した国と言える。
 1965年にマレーシアから独立したシンガポールは、国語はマレー語であるが、公用語は、英語・マレー語・北京語・タミール語である。つまり英語の他、それぞれの母語を認めているのである。いわば多文化・多言語主義なのだが、それでも英語の優位性は否定できない。
 私は、日本がシンガポールのようになるべきだと主張しているわけではなく、母語を大切にしながら*2、英語と付き合わざるを得ないシンガポール人の言語意識を「反面教師」として学んだ方がいいとは思っている。
 実はこの点は私自身もよくわかっていないし、シンガポール人もこうした課題を克服したとも思っていないのだが、少なくとも植民地主義的ではない外国語学習というものはどういうものなのか、「反面教師」的であったにしても、シンガポールの体験を通じて私たちが学ぶことは多いと考えている。
 いずれにしても、植民地主義的ではない外国語学習という課題を、理論的にも実践的にも明らかにしないといけない。
 日本の小学校の英語教育導入は、擬似植民地主義的状況の下で、子どもの人格の問題を抜きにしている気がしてならないのである。

*1:母語を大切にしながらも」という表現は、シンガポールの多言語政策が所詮イギリス語重視の状況に変わりはないという点で、保留しなければならない。ただし、「反面教師」として、シンガポールから日本人が学ぶことは多い。

*2:シンガポールでも、中国語、とくに北京語ではなく、ローカルな福建語や広東語が軽視されているという言語差別意識の問題はある。中国語を話せない華人が増えているとも聞いている。多言語政策といっても英語重視であることに違いはない。