「迷走する英語教育をただす -中村敬の理論・思想・実践をもとに」を読んだ

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迷走する英語教育をただす -中村敬の理論・思想・実践をもとに

 ホームランダービーに出場し翌日オールスターゲームで打って投げるという歴史的快挙を果たすことになった大谷翔平投手の活躍を期待してMLBのオールスター戦を見た。MLB前半戦における大谷投手の大活躍から、大谷投手への期待と話題が盛り上がっている。

 そうした中で、野球アナリストのスティーブン・スミス氏*1から、大谷投手のようなMLBを代表する花形選手が英語を話せないのはいかがなものかというコメントが出された。

 これはよく聞かれる話で、またかとうんざりさせられたけれど、意外に感じたのは、外国人嫌いの差別的な意見だと批判されて、すぐに発言者が謝罪したことだ。これはこれまでとバランス感覚が違う。時代は確実に変わりつつあるということなのだろうか。

 ところで試合結果はアメリカンリーグが勝利し、大谷投手が勝ち投手となり、ホームランを打ったア・リーグのチーム仲間のゲレーロジュニア選手がMVP(最優秀選手)を獲得した。彼の父親もオールスターゲームでホームランを打った実績をもつ名選手だそうで、親子二代にわたって活躍が期待される22歳だ。その彼がMVPのインタビューで、父親に対する敬意とともに、自分が選ぶのであれば大谷投手をMVPに選ぶとスペイン語で発言していた。

 なんだ、オールスターゲームで活躍した大谷翔平投手もゲレーロジュニア選手も二人とも通訳を介して母語で話し、英語なんて話してないじゃないの*2。そもそもアメリカ合州国の野球試合なのにワールドシリーズという名称は大国主義的でおかしくないか。デビッド・バーンが言うように、そもそも、すでに移民なしでは何ともならない世界なのにね。

 ところで、日頃のインタビューを聞いていて大谷投手の日本語能力はユーモアも含めてかなり高いと思っている。日本人であれば皆すばらしい日本語が喋れるというものでもない。おそらく大谷翔平投手ほどの言語能力とコミュニケーション能力、そして対応能力があれば、英語も相当の使い手になるだろう*3。ただ、いま大谷投手が優先的に力を入れているのは野球におけるパフォーマンスだ。野球について正確に伝えるには専門家の通訳者の手を借りておこなったほうが今は確実だろう。

 批判されるべきは、英語を話すのが当たり前という英語優先主義・大国主義・大言語主義、不公平さだ。

 

 さて、中村敬・峯村勝著「迷走する英語教育をただす -中村敬の理論・思想・実践をもとに」(かもがわ出版)を読んだ。

 

 著者・中村敬氏は、英語社会学の提唱し、ことばの思想性・ことばの社会性・ことばの文化性を考察しつつ、ことばの本質を追究してきた成城大学名誉教授。共著者である峯村勝氏は、中学校検定教科書のニュークラウン(三省堂)を長年出版してきた編集者である。

 自分の書棚を見ると、中村敬氏の著作物は以下の通り読んでいた。

  •  「私説英語教育論」(1980年)
  • 「英語はどんな言語か -英語の社会的特性」(1989年)
  • 「外国語とイデオロギー -反=英語教育論ー」(1993年)
  • 「なぜ、「英語」が問題なのか? 英語の政治・社会論」(2004年)
  • 「幻の英語教材 英語教科書、その政治性と題材論」(2004年)*4
  • 「「英語教育神話」の解体 今なぜこの教科書なのか」(2014年)

 本書は、題名に「迷走する英語教育をただす」とあるように、小学校・中学校・高校・大学という、学校教育という条件・環境で何を身につけるのかという話題に限定されている。

 ことは「教育」ということなるので、たとえば「自律的な日本人になる」というような目標を考えなくてはならない。 本書では、教育目標では、たとえば「生徒に生きる力」を与える。「その準備」として、単純明快に「(1)数字の理解力と運用力 (2)事実や考えを伝えるコトバの理解力と運用力」を中村氏があげているのは秀逸だ。

 著者の思想として、英語教育は「人間教育の一環」でなければならないと喝破されている。

 一方、日本においては、教育が政治と経済に支配されている、国家のための人材養成がなされているという著者の問題意識があり、本書の中では、「経済は教育の上位概念ではないし、経済産業省文部科学省の上位組織ではない」(前川喜平)ということばが引用されている。

 中村氏は言う。「もともと、英語を学校のカリキュラムに位置づけたのは、国防のためでした。その意味で英語はもともとエリートの言語でした。ところが、戦後英語がすべての「国民」の実質必修の外国語となったのです。そこから問題が起こりました。国防に代わって使われてきたことばは、経済成長(発展、開発)です」。

 

 私たちが無自覚なことも少なからずあるけれど、話す英語の必要性も、 「1945年9月2日から1953年4月28日まで7年間占領され、日本人が突然話す英語にさらされたから」だ。

 

 学習指導要領にしばられる。外国語は英語がもてはやされる。政治・経済・社会・文化のグローバル化は、英語化と不可分。

 日米安保条約日米地位協定。対米従属。安保体制と憲法体制のつばぜりあい。こうした状況と英語教育が無関係ではありえない。

 日本の検定英語教科書で、吹き込み者はアメリカ英語、圧倒的にアメリカ人が多いのは、その一例である。

 最近では効率がよいと、小学校から英語教育を開始。4技能テストを全受験生に強いる。デジタル化社会に対応するため学習者一人に1台の情報端末機を与えるなどがその一端である。

 

 そもそも、英語の社会的特性、その歴史をみると、英語には、他の民族語にみられない危うい社会的特性がある。

 まずオランダ語。イギリスとオランダの覇権争い。イギリス勝利。大英帝国の衰退ののちアメリカが覇権国と、英語帝国主義が続く。

 英語の社会的特性を無視して4技能の習得といった単なる手段・道具としての英語の活用に終始することはできない。英語教育は教授法の問題ではすまされない。

 「英語を共通語として使う場合、英語の母語話者が有利であるというバカな話」が出てくるからだ。「言語帝国主義」(本多勝一)ということになる。

 「ことばと国家」(1981年)の著者・田中克彦氏の視点も、英語帝国主義のもとになっている言語帝国主義という視点をもっている。

 

 外国語教育といっても、英語一辺倒の英語主義・英語優先主義・同化主義。そして道具主義・技能主義。コミュニケーション主義。グローバル化は英語化。

  "Welsh Not"(「ウェールズ語禁止」)という方言札の存在を知り、「ウェールズにおける言語侵略」を書いた中村敬氏にとっては、少数言語を大切にしなければならない、文化の相対化を果していかなければならない、英語だけが外国語ではないという視点は当然なものだ。

 英語一言語主義を克服するために、「多言語主義」「多文化主義」。これらは「母語の思想」と不可分であり、外国語教育の大前提である。

 ここから、外国語教育においては外国語の種類を多様化し選択制にすべきだし、英語という言語の外国語としての特殊性(英語の社会的特性)を認識すること。批判力・批評精神を育成する課題が引き出されてくる。

 

 言語帝国主義・英語帝国主義というのであれば、英語教師なんかやめればよいではないかという反論が当然生じてくる。

 「英語教師としての葛藤」について、中村敬氏は次のように述べる。

 「英語の教師であることは結果として「英語一極集中状況を維持し再生産する」ことに貢献しかねない…(後略)」。

 「葛藤は、英語を深く学び、教え、研究することが、文化の深層に触れることのプラスの側面と、富国強兵という国家の理念を補完することになるのではないかという負の側面との間に生じる葛藤です。その負の理念は自由であるべき教育や学問の自律性に反する。その葛藤を克服するために、あるいは特定国の言語であることから生じる英語帝国主義状況を克服する理論として、ぼくは「対抗理論」と「空洞化理論」を提出し、それを実践することで闘ってきました。闘いはまだ終わっていません」と、中村敬氏は、「対抗理論」と「空洞化理論」を強調する。

  全員対象の英語教育を止めるという「対抗理論」。

 言語の大言語性(侵略性)を乗り越える、無力化する方法を考えなければいけないという「空洞化理論」。「自分で英語を使って、なおかつ自己流であってもそれを使うことによって、母語者の言説を乗り越える、あるいは口頭で説得できる、そこまでいかないといけない。それをぼくは「空洞化理論」と呼んでいます。」「英語の”修養”(この言葉はもう死語です)と共に、英語で批評・批判する力もつけていかないといけないという、二重構造になるわけですね」。

 

 ところで、「外国で二年ぐらい勉強したところで、研究などできるものではない」(外山滋比古)という、言語習得・英語習得のむずかしさについての紹介も興味深いものがあった。

 「外山さん自身は留学もせず、「修辞的残像」で文学博士号をとったのでした。ぼくは若い頃に読みましたが歯が立ちませんでした。ひょっとすると、英語界全体が外山さんの英語教育論を含む業績を正当に評価できていないのではないでしょうか。」

 「中野好夫アングロ・サクソン文化に全身全霊を傾けてもしっくりせずかつ漱石を越えられないと悟ったとき、戦前の戦争協力に対する贖罪の気持ちも手伝って、英語教師を辞め社会評論活動に逃げ込んだ…(後略)」。

 これは深いですね。

 

 また、センスとナンセンスの箇所。

 中学教科書の教材にアリスを使った中村氏。イギリス文化のエトスそのものであるアリス(Alice in Wonderland)。

 「アリス(Alice)とビートルズ(Beatles)は、ナンセンス文化という点でつながるのですけれども、ナンセンスの文化というのは、日本にもナンセンス文化はあるけど、どうして英語のナンセンスが分かりにくいのかという、ここがぼくにとっての難題なのです。」

 ロック、ラッセル、ホーキング、シェークスピア、ミルトン、バイブルというセンスのラインアップと、マザーグース、アリス、ビートルズというナンセンスのラインアップ。

 こちらも深いですね。

 本書は、ブックレット程度の薄い本だが、内容は充実している。

 英語教師はもちろんのこと、何度も読み直さないといけない一冊だと思う。

  大谷翔平投手には投打の二刀流だけでなく、不当な言語差別に負けず、日本語と英語の二刀流で、さらに好きな野球に打ち込んで、楽しんで、さらなる活躍を期待したい。

*1:ティーブン・スミス氏はアフリカ系アメリカ人

*2:勝利投手の大谷投手は日本出身。ゲレーロジュニアはカナダ・ドミニカ共和国出現。セーブをマークしたヘンドリックス投手はオーストラリア出身。試合の立役者は、'Truly Global Game'と現地の番組で言っていた。

*3:渡米後の大谷翔平投手の、チームはもちろん相手チームの選手たちとの交流のしかたを見ていると、そのコミュニケーション能力と言語能力、そして対応能力の高さはすでに証明されていると思う。

*4:「幻の英語教材」は、中村敬+峯村勝によるもの。