池内尚郎氏の「民際英語でいこう」を面白く読んだ

民際英語でいこう

 池内尚郎という筆者のお名前は存じ上げなかったけれど、「民際英語でいこう」という本を面白く読んだ。副題に「ザメンホフ先生、すみません」と書いてある。ザメンホフ先生は、もちろん、エスペラント創始者ザメンホフのことである。
 池内尚郎氏は、40代から会議通訳者になられた経歴の方で、教師ではないものの、一読して、非常に教育的な本であると感じた。
 この本の中で、池内氏は、エスペラント運動の「内在思想(interna ideo)」から、英語を民際語(lingvo interpopola)*1として使うことを提唱している。民族語としての英語ではなく、実用言語(utilitarian language)としての英語を使えということだ*2
 私の経験からも言えることだが、英語という大言語を学ぶ際に、私たちが気をつけないことは山ほどある。世界の諸関係やら歴史、言語間の差別観など、英語というものは、ただ単に学べばよいという能天気な性格なものではない。
 この本の中でも紹介しているように、「何百万という人びとに英語を知識として教えることは、それらの人びとを奴隷にすることだ」(“To give millions a knowledge of English is to enslave them…”)というような感性が必要だ。これはマハトマ・ガンジーのコトバだそうだが、イギリスで教育を受けたガンジーが、こうした思想をおそらく英語で発言していることでも、その根の深さがわかろうというものだ。
 この本で書かれていることは、「自己殖民地化」(auto-colonization)*3とか「奴隷根性」(slavementality)であるとか、普段あまり考えないかもしれないけれど、英語を学ぶ際のコトバの問題として、のっぴきならない重要な問題ばかりが書かれている。英語教師であれば考えないといけない重要な問題が書かれているのだ。
 そうした意味で、この本に書かれていることは、英語教師としての私の拙い経験からでも、全て私なりに考えてきたことばかりであるのだが、ロンブ・カトーさんの言葉である「わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです」という引用された一文に私は深く考えさせられた。
 本来これは英語教師が生徒に言わなくてはならない内容である。しかしながら、これを、確信と自信をもっていま生徒に言えるかと問われれば、正直言って私は動揺してしまう。同じく引用されている「外国語を学ぶことは日本語のバイアスに気付くことでもあります。慣れ親しんだ母国語の論理と異なる外国語の論理を学ぶことで、物の考え方もより客観的になると信じます」(井上孝夫)という言語思想を私自身も信じているのに、である。
 いずれにしても、英語教師は「わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです」の意味を真剣に考えなくてはいけない。
 同じく、「私の外国語学習法」(ロンブ・カトー著)から紹介されている「(消費された時間+意欲)÷羞恥心=結果」という指摘も面白く納得できる。
 インターネットの各種サイトの紹介も役立つ。
 全ての英語教師に本書の一読をすすめたい。

*1:池内氏は、「民際語」をInter-People English=IPEと訳されている。

*2:「民際英語」というような英語のモデル提唱についていえば、こうした主張はとくに新しいものではないが、重要な問題提起であることに変わりはない。民際英語の概念は、英語を母語としない人々のコミュニケーションでこそ、その意義を発揮するに違いない。母語話者と非母語話者がコミュニケーションをとる場合、民族英語的なイディオムを使わないように母語話者に求めることは必要だが、こうしたことを提唱されている鈴木孝夫氏にしても、池内尚郎氏にしても、民族語としての英語も、達人の域に達しているであろうということが、つまり、学ばざるをえなかったという点が、そもそも矛盾といえる。

*3:池内氏によれば、「自己植民地化」は、鈴木孝夫氏の用語のようである。鈴木氏の著作については当然わたしも数冊読んでいるが、私は気がつかなかった。