そもそも日本の外国語教育として、全ての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのか

 都立高校の入試に使われるという英語スピーキングアチーブメントテストが明日実施される*1

 第一に、この英語スピーキングテストは、入試としての瑕疵が多く、入試として使いものにならないという意味で、入試に使うことは適切ではない。

 当然なことに批判が多く寄せられているのに、いまだに入試にふさわしくないものを入試に使うことをやめるつもりがないようだが、入試に使えないものを入試に使うことに躊躇しないとは東京都はどうなっているのか。小池都知事は大丈夫か。

 英語スピーキングテストは、都立高校の入試に使うべきではない。いまや入試に使うことを止めるという判断しかない。英断をのぞむ。これが第一点。

 第二に、英語スピーキング活動を、なぜ(アチーブメント)テストとして、中学生全員に強制するのか。というのは、スピーキングを評価するというのは簡単なことではない。とりわけ点数化は困難といえる。点数化すれば、生徒と生徒を比較することになる。生徒間を比較するほどの精度の高い点数化ができるとは思えない。だから、8万人ともいわれる全ての中学生に、英語スピーキングの活動を「テスト」するということに反対である。

 中学英語授業で、自主的な、英語スピーキングの授業実践を取り入れることについて、反対しているわけではない。東京都一律でない、励ます評価としての学校単位の評価は可能と思う。授業時間も限られていると思うので、バランス的に、スピーキング以前に、スピーキング以外の他の活動をもっと取り入れて英語全体の理解をすすめるべきとは思うが、反対するものではない。現場の先生に任せればよいことだ。

 結論をいえば、英語スピーキングを、入試に使う、アチーブメントテストをおこなうということに反対なのである。

 以上で、言いたいことは終わりなのだが、ここで考えたいことは、そもそも日本の英語教育として、全ての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのかということである。(「」をつけたのはテストを強調したいがため)

 その先を問うならば、すべての日本人に英語スピーキング「テスト」は必要だろうか。(「」をつけたのはテストを強調したいがため)

 外国語を習得するには、語彙の習得、リーディング、リスニング、スピーキング・文法の習得・ライティング・文化を知るなど、さまざまな要素がある。またそれは長い道のりである。習熟度は、学んだ量によってさまざまだ。

 スピーキングは、多量のリーディングとリスニングによる語彙修得がなければ、スピーキングはおぼつかない。そもそもスピーキングはむずかしい活動である。外国語は、たくさん話さないと話す能力を身につけることはできない。その上、その対象言語が話されていない言語環境では、話す活動をマスターすることは難しい。流暢な話者をつくるためには、長い時間軸で学習時間量と言語環境をデザインする必要がある。その外国語に学校でどっぷり浸かるエマージョン教育。エマージョン教育でも、理解(comprehension)は十分なので、その言語が話される社会に飛び込むならスピーキングの進歩は速い。しかし、その言語が話されることのない言語環境に置かれたままであるならば、スピーキングでは困難性がともなうと言われている*2。そもそも、日本のような言語環境で、つまり外国語を外国語として学んでいる国で、ここは意見が分かれるかもしれないが、私見では、すべての日本人に英語を話す能力は必要もない。

 これらの問いに否定的となれば、励ます評価は別にして、すべての中学生に英語スピーキング「テスト」は必要なのかという問いが発生する。

 外国語をマスターするという観点からいっても、否ではないか。中学生には、もっと理解のともなう音読も含めてリーディングやリスニングの練習をして英語全体の理解(comprehension)を伸ばしてもらいたいと思うからだ。

 けれども、必要性があるときに潜在能力を顕在化させるだけの基礎力・総合力はすべての中学生に身につけさせたい。外国語教育・学習としてのリベラルアーツの考え方だ。

 むかし読んだもので、文化人類学者の梅棹忠夫氏が、外国語は、調査が必要なときに集中して学び、フィールドワークが終われば、その外国語は忘れてよいと考える。フィールドワークが終わり、その地を離れて、その外国語を維持しようとすれば、ものすごい時間とエネルギーが必要となる。梅棹氏は、そうしてAという外国語を学んでは忘れ、Bという外国語を学んでは忘れて、数多くの外国語に接してきたという経験談を読んだことがある*3

 多言語を学んできた経験談*4を聞いても同じだと感じる。

 必要なときに、集中的に語彙を学び、リーディングとリスニングに取り組み、準備としてシャドーイングでも何でもやって、語彙力をつけたのちに、コミュニケーションが取れる中級者となって、異言語社会に飛び込んで、さらに話す力を伸ばせばよい。こうしたアプローチをとれば、たとえアクセント(訛り)が残ったとしても、コミュニケーションはとれると思うからだ。

 外国語として、その子にとって何語が必要なのか。

 この点でも、当事者である学習者に、せめてどの外国語を選ぶのか、選択させるべきではないか。

 励ます評価は別にして、一律に競争試験として全ての中学生にスピーキング「テスト」を課すのは、現実的でない。

 言語帝国主義(英語主義)の観念をも生徒に与え、精神衛生上もよくない。

 

 イングランドのコトバでしかなかったイングランド語が何故これほどまでに世界に広がったのか。それ自体が問題だ。ひとつは、大英帝国の存在。さらには、1945年以降のアメリカ合州国超大国化による覇権が要因である。
 したがって英語という大言語のもつ侵略性の問題性を考えなくてはならない。
 インドの言語学者であるブラジ・カチュル(Braj Kachru)は、1985年にすでに古典となった同心円モデル(Three Circles model of World Englishes)を提唱した。内側の円(the inner circle)は、イギリス・アメリカ合州国・オーストラリア・ニュージーランドアイルランド・カナダなどで、英語が第一言語であり、母語が英語であり、英語の伝統が存在している円。「外側の円」「拡大する円」に対して英語のモデル・規範を与えている。外側の円(the outer circle)は、イギリスやアメリカ合州国によって植民地化され、もともとは非母語話者に英語が広がり結果として多言語社会をつくられた国々。たとえばマレーシア、シンガポール、インド、ガーナ、ケニア、フィリピンなど、英語が、歴史的経緯から、公用語、または一部を担っている国である。拡大する円(the expanding circle)とは、英語を外国語として学び、英語を国際化の道具にしようとしている国々。中国、日本、ギリシャポーランド等々の国々を指している*5
 日本は、ひとつは地勢的条件から、またひとつには歴史的経緯から、またひとつには、言語政策から、さらには政治情勢から、戦後日本では、外国語教育といわれているにもかかわらず、選択はほぼなく、その外国語とは英語を指すことが多かった。最近では、ますますその傾向が強く、外国語イコール英語という構図は、思考停止状態で認知されているかのようだ。

 そこから、政治的には植民地国でないにもかかわらず、あたかも植民地国であるかのように、「自己植民地化(auto-colonization)」(鈴木孝夫)、従属国的様相を示している。

 一方、主に地勢的条件・歴史的経緯・言語政策から、日本では、外国語を学ぶということが一体全体どういうことか、イメージがわいていないし、どのようにしたらマスターできるのか、理解されていない。

 都立高校の英語スピーキングテスト問題で考えさせられたことは、以下のとおり。

(1)国民の教育権にもとづいた外国語教育をおこなう

 いままでも、これからも、外国語学習はたいせつ。人間教育としての外国語教育をすすめたい。それは、国民の教育権にもとづいた外国語教育でなければならない。国のご都合で外国語教育が考えられてはならない。

 すなわち、植民地主義的・新植民地主義的でない。政治主義的でない。政治権力的・パワーポリティックス的でない。大国主義的・英語偏重主義でない等々。

 日本の言語環境に合った外国語教育の外国語政策をすすめたい。
 明治期、学問の独立を果たした日本。
 実用か否かは別にして、教養としても、役に立ってきた。外国語を学ぶことで視野が広がる。あらたしい文化を知る。多面的人格の形成に役立ってきた。
 学習方法を学ぶこと、学習過程も役に立ってきたと思う。

(2)当事者である子どもの学習権を保障する

 「富国強兵」的人材育成というような国策からのベクトルではなく、子どもの主体からのベクトル(子どもの興味・関心)を重視して、子どもの学習権を保障したい。外国語を身につける、身体化(脳として学習)するには時間がかかるもの。長い道のりが必要。アジアの言語も軽視すべきでない。多言語主義で行くべき。そもそも外国語教育・外国語学習としては選択制を検討すべきではないか。いろいろな外国語を学んだ人間を増やすことは、国策にも合致するのではないか。

 教育・学習活動については、生徒主体で、生徒主導によるプロジェクト重視が今日的。生徒の動機・生徒の主体性をだいじにする。どこまでやるのか、どの分野をやるのか、どんな目的でやるのか、それは個人の選択に任せるのが今日的ではないのか。

(3)カリキュラム作成においては教師の自主編成権を尊重する

 国は、条件整備に努めるべき。外国語教員の研修を豊かにする。選択制の外国語教育にして、教師はファシリテーター的役割をつとめる。

 発達した資本主義国日本。ハイテクジャパンという割には、その学習環境は貧相ではないか。集中的に学習できる、言語環境を装備した学習室を用意することを検討。
 昔のいわゆるLanguage Laboratory をもっと現代化して、教材のサブタイトルが利用できたり、AI、コーパス、CALL(Computer Assisted Language Learning)を活用した図書室が自由に利用できるような学習環境を準備しつつ、外国語教育は、言語教育・人間教育に徹する*6

(4)これまでの日本の教育制度、マインド・学習姿勢を変革する
 学習義務としての外国語教育で、はたして子どもは意欲をもてるのだろうか。 外国語習得ではミスを気にさせない指導方法が大切。生徒は、中途半端な外国語習得状態で中途半端な心理状態におかれている。ストレスもかかえる。完璧主義にならず、励ます評価がたいせつなのに、環境を変えずに、テストを課すことで、子どもの学習意欲は引き出せるだろうか。いまは参加型、プロジェクト型で、楽しんでやる時代。これまでの日本の伝統的ペーパー試験や点数主義、競争主義、能力主義に外国語の学びは全く合わない。過度の競争的テスト主義はもはや時代遅れとなっている。
 その意味では、英語学習にまつわる克服すべき神話がたくさんある。
 たとえば、外国人が日本語を話せるわけがない(裏返せば、日本人が英語を話せるわけがない)という神話。日本語は特殊であるという神話。日本の英語教育は役に立たないという神話。英語を読む(訳読、日本語訳先渡し授業、直読直解)のは英語を話すことに役に立たないという神話。外国語をマスターするにはその外国に行かなければ無理という神話。その外国に行けば誰でも話せるようになるという神話。反論するのははしたないと考える日本のコミュニケーションのやり方。完璧主義。英語を流暢に話すことはエライという差別意識、等々。

 たとえば、外国語のエマージョンが役に立つからといって、エマージョンを持ち込んだ場合、母語の発達が不十分になるリスクがある。早期学習がよいからといって、早いうちに持ち込めば、やはり母語の発達が不十分になるリスクがある。そうした両面をみなければ、おっちょこちょいの誹りを免れえないだろう。

*1:このテストについては、いままでいくつか記事を書いてきた。たとえば、利権的・売国奴的・差別的、なにより教育的でない都立高校入試へのスピーキングテスト導入の中止を求めます - amamuの日記 (hatenablog.com)教育的でない、さらに公平・公正でないスピーキングテストの都立入試への導入はすぐ中止にすべきではないですか - amamuの日記 (hatenablog.com) / 問題の多いスピーキング”テスト”を都立高の入試に導入することは止めて、中学生に、さすが大人は違うと、人としての模範を示してほしい - amamuの日記 (hatenablog.com)

*2:たとえば多言語話者のスティーブ・カウフマン氏によれば、3人のお孫さんがカナダのフランス語によるエマージョン教育を受けたという。エマージョンの学校とは、全教科をフランス語で受ける教育。理解は十分となるが、話すということでは、たくさん話す機会がないために、当然のことながら、課題が残る。友達どうしで、家庭においては、英語を話しているからだ。けれども、理解(comprehension)は十分となるので、フランス語が話されている例えばフランスに行けば、スピーキングは全く問題なく伸びるという。これもまた当然の話だ。以下の動画を参照のこと。Does Language Immersion Work? - Bing video

*3:わたしの経験でもアオテアロアニュージーランドマオリ語を学んだが、今はすっかり忘れている。ただ、先日、YouTubeマオリ語を聞いたら、蘇ってくる気がした。忘れていても戻ってくる感じを経験した。言語学習はまったく無駄ということはないのだ。

*4:最近は、スティーブ・カウフマン氏から学んでいる。氏の経験談から多くのことが学べる。

*5:実際は、アイルランド語が英語によって侵略されたアイルランドを英語国とみるのはあまりに能天気だし単純すぎる。ニュージーランドも、アオテアロアニュージーランドと呼ぶべきマオリ語の問題がある。あくまでも同心円モデルは大枠でしかないことに留意したい。

*6:利権が想定される安易なデジタル化構想、GIGAスクール構想は危うい。基本は、経済でなく、教育、人間教育にその原理を置かないといけない。