問題の多いスピーキング”テスト”を都立高の入試に導入することは止めて、中学生に、さすが大人は違うと、人としての模範を示してほしい

 あらたに都立高入試に導入されようとしている問題だらけのスピーキング”テスト”*1
 あと一ヶ月後に実施予定とされるが*2、これを入試に使うのは止めてほしいという声が広がっている。


 第一に、かつて区立中と都立高で英語を学び長年私大付属の高校教師として英語を教えた者として許せないことは、教育行政としてやるべきことをやらず、教育行政としてやってはならないことを、公教育、公立学校に導入しようとしている点です。内容としても段取りとしても教育行政としてやってはならないことを、学識者や教育関係者、父母の批判意見を納得させられないまま強行しようとしている点にあります。本来なら入試を担当する教育“専門家”の範疇で不可にすべき“テスト”が、いまだ不可にならず、父母を巻き込んでの騒動になっていることは、教育とは無縁の珍現象というほかありません。

 こんな騒動を見せられている中学生は、どんな気持ちでこの騒動と大人たちを見ているのでしょうか。
 こんな大人の所作を見せつけられて心底落胆しているのではありませんか。当時中学生であった自分であれば、そんな大人たちに絶望したであろうと思えてなりません。

 言うまでもなく、国民全体に対し直接に責任を負っている教育行政がやるべきことは、国民の教育を受ける権利の実現と保障にあります。教育行政がやるべきことは、教育の機会均等や、教育水準の維持向上に努め、教育の目的を遂行するに必要な条件整備をおこなっていくことです。
 たとえば英語スピーキング能力を向上させたいのであれば、民間“テスト”を刺激剤に導入するのではなく、一クラスの定員減や英語教員の研修を増やすなど、劣悪な教育環境・条件を改善すべきです。教育行政としてやるべきことは山ほどあります。

 今回のスピーキング”テスト”は、新しく導入されるものです。既存の入試を使えば、あえて導入しなくてもよいものです。全員が賛成できるような内容で問題ないものであれば、導入を検討することもあるかもしれませんが、問題が多ければ、避けるのが当然です。中止が妥当な判断です。しかしそうした展開にはなっていない。


 なぜゴリ押しするのか。そこがわからない。不可思議です。

 教育行政は「不当な支配」に服してはなりません。この「不当な支配」とは、政治的・官僚的支配のことです。今回のなりふり構わぬ導入に、民間業者と政治家との利権がらみの癒着が噂される「不当な支配」はないのでしょうか。心配と不信感がぬぐえません。


 第二に、そもそも、今回導入されようとされている瑕疵だらけのスピーキングテストは“試験”と呼べる代物なのか、多くの疑問があります。

 評価とは、生徒の学びを励まし、さらに意欲的に努力するよう背中を押してあげられる評価もあれば、選抜試験のように、やらざるを得ない必要悪的な試験(評価)もあります。

 教育活動でいえば、入学は広き門で、卒業が狭き門という学校制度と学校組織そして教育活動もある一方、入学は狭き門で、卒業が広き門という学校制度と学校組織そして教育活動もあります。
 教育活動としては、「広き門」のほうが、教育の機会均等にとっては適切と考えますが、「狭き門」となれば選抜するしかありません。つまり競争試験となります。必要悪としての入試が必要となります。ただし、それは差別的でなく、公正・公平でなければなりません。少なくとも公正・公平をめざさなくてはなりません。

 今回のスピーキング”テスト”は、公正・公平が担保されているのでしょうか。教育活動に一度でも携わったことのあれば、疑問の余地なく否と言えます。


 生徒を評価する場合、まずその評価者に評価させてよいものか。評価者は評価できる資格・要件を備えているのか。評価者の評価が大前提となることは言うまでもありません。不信感を抱いている評価者に評価されたくないと当事者が考えるのは自然なことです。

 一般に、試験問題作成、試験実施の運営体制、採点業務のすすめ方・あり方は、説明責任を果たして可能な限り公開しなければなりません。しかしながら、質問に対して「運営体制、問題作成、採点業務等については、テストの公正・公平な運営上の機密事項に当たるため、公表することはできません」というのが回答と聞きます。


 この点で、今回のスピーキングテストは、教育を担当する都立高校関係者でなく、(公教育従事者でもなく?)事業者は都教委ではありますが、運営主体がベネッセ、さらに試験監督は外部人材のアルバイトという民間企業に丸投げの信頼性が危惧される体制であり、さらに具体的に評価を担当するのは、フィリピンという外国における丸投げ体制で、それらの評価体制の情報は開示されないと聞いています。これではさらに不信感が募るばかりでしょう。

 公教育としてこれほど主体性の感じられないテストが都立高校の入試として成立するのでしょうか。理解に苦しみます。

 第三に、そもそも、スピーキングの力を点数測定すること(評価すること)はとても難しい。
 そもそも<質的に>スピーキングをテストするということ自体、大変むずかしい活動です。
 それが<量的に>8万人もの受験者を点数評価するとなれば、さらに困難がともなうことになります。時間的制約があるとなれば、なおさら物理的に難しくなります。公正・公平にやるとなれば、ほとんど不可能と言わざるをえません*3


 それほど難しい点数評価であるにもかかわらず、フィリピンで採点をおこなう組織名、経営形態、雇用人数、雇用形態、専門性の担保等を質問したところ、「組織名と経営形態、雇用人数については、テストの公正・公平な運営上の機密事項に当たるため、公表できません」との回答だったと聞きます。これは無責任の誹りを受けて当然と思いますし、不信感が払拭されずにさらに募るのも当たり前です。


 スピーキングの点数評価は実際むずかしい。

 たとえば、ぺらぺら話すが、内容に乏しい発話*4。朴訥とではあるが、深い内容を話す発話。人格に直結する話す力を評価することほど難しいことはありません。そもそも点数評価にそぐわないのです。

 極端な話、落語の5代目古今亭志ん生と8代目桂文楽の話芸をみても話す力が個性であることがわかります。果たして点数がつけられるのか。中学生のスピーキングテストと話芸のレベルは違うということは言うまでもありませんが、本質的には、同じ問題を抱えることになります。

 

 そもそも、日本の英語教育はどうあるべきか。根本問題があります。

 歴史的にみて英米と日本との国際関係。支配的大言語としての英語(英語帝国主義)。敗戦後の米軍占領下。その後の英会話ブーム。日本人にとって英語をマスターすることは、見果てぬ夢のようなところがあります。けれどもタイプの違う他言語を学ぶ場合、膨大な学習時間が必要となります。そしてインターネットの登場とSNSやAIもふくめた今日における英語学習課題とは何か。今後の課題として、日本の言語環境における英語のスピーキングをどう考えるべきか。少なくとも日本の言語環境からみて、ESL(English as a second language)として教える言語教育とEFL(English as a foreign language)として教えるリベラルアーツとしての外国語教育を区別しての議論が必要です。大人たちは確信をもって日本の英語教育の展望を言えるのでしょうか。多くの人を巻き込んだ教育的議論が必要です。

 こうした情勢のもとで、英語を話すことを目標にする場合、少なくともその英語のモデルをどのように設定すべきか、モデル設定の問題があります。古くは小田実氏が提唱されたイングラント、鈴木孝夫氏のイングリック、渡辺武達氏のジャパリッシュなどの英語モデルのことです。この辺が定まっているとは言えません。日本全体の英語教育の底上げをはかるには、英語教育の目的、目指すべき英語のモデルを明確にしなければなりません。そして、それを小中高大とカリキュラム化しなければならない課題があります。広範な国民的議論が必要です。
 今回の”テスト”の評価基準のひとつとして、母語の影響を受けている発音というのがあると聞きます。そもそも母語の影響を完全に免れることはできません。こうした基準は独り歩きしていきますから、「母語の影響」という基準が設けられれば、塾関係者も生徒も、話す内容よりも「母語の影響」を削ぎ落す発音修得に懸命になっていくでしょう。シェイクスピア研究で有名な英文学者・故中野好夫氏は、流暢ではありませんでしたが、深い英語を話したといいます。発音が重要でないというつもりは毛頭ありませんが、「母語の影響」は少なからず残るものです。タブレットを使ったスピーキング”テスト”モドキなど止めて、むしろ通常授業で発話の失敗を恐れず、話す内容が大切と励ます指導が必要です。時間数からいっても、クラスの定員数を減らし教育環境を改善し、英語の語彙や英語の構造の知識など最低限の力をきちんと身に着けさせることが肝要です。

 「母語の影響」という植民地的ともいえるこの基準は、今日的視点としてズレています。鳥飼玖美子氏は、日本の若い世代に、twitterにおける書く英語の発信の少なさを嘆いておられました。日本の言語環境が大いに関係していると思いますが、発信自体が少ないのです。発信を恐れず、生徒に話したい内容を考えさせ、発信を励ます今日的指導が必要です。

 

 こうしたことを考えると、今回スピーキングテストを導入しようと考えている人たちの言語観・教育観を信用することは到底できません。

 

 日比谷高校など、比較的入ることが難しい高校は、独自の入試問題作成をおこなっていると聞きます*5が、それら例外はあるでしょうが、入試共通問題作成にかかわる都立高校の現場の先生方が少ない中で、今回のスピーキング”テスト”に関する教育の主体である現場の先生方からの声を聞くことはあまりありません。このこと自体が問題と思いますが、都教委は、現場の先生方をはじめ学識者・保護者・生徒の意見にもっと耳を傾けるべきです。都教委は、教育行政としてやってはならないことをやってはいけません。教育行政としてやるべきことをやるべきです。

 

 第四に、英語スピーキング”テスト”としての問題もありますが、それ以上に問題と感じるのは、入試問題としての制度設計の瑕疵です。スピーキング”テスト”を外付けにしたせいなのか、総合点的にみて英語の比重が増えてバランスを欠いた点。スピーキングテストがそれほど重要であるならば、本来、英語試験の中に組み込まれるのが普通です。バランスを欠いた制度設計は、中学校の教育活動をゆがめることになります。さらに公正でも公平でもない点でひどいのが不受験者の扱い。みなし得点(見込み点)の算出方法です。これならスピーキングテスト”を導入する必要すらありません。またこれでは入試における公正さ・公平さが担保されません。また不適切な実施時期。さらに不十分なフィードバックという問題も試験としてのかたちを成していません。言うまでもないことですが、入試で最も必要なことは、公正・公平です。それが担保されない入試となれば、それは入試のかたちを成していないと言わざるをえません*6

 

 教育活動は、不信感の募る中でおこなうものではありません。

 内容としても段取りとしても瑕疵の多いスピーキング”テスト”を都立高入試に導入することは止めて、教育行政としてやるべきことをやってほしいと切に願っています。そして、中学生に、さすが大人だ、大人の所作は違うと示してほしいと思います。

 たとえアチーブメントテストとして実施したとしても、スピーキング”テスト”の点数評価を入試に組みこむのは止めるべきと考えます。

 不信感でなく、信頼関係の中でこそ、教育は生かされる、生徒も生かされると考えます。

 

*1:以下、教育行政の役割と公正・公平をどのようにしたら担保できるかという技術的な問題を主に述べるが、そもそも小中高大と英語教育の体系が明確でないところで、中学生だけに、それも全受験生に話す力をテストすることの意味があるのかという根本問題がある。政治家と財界人に教育がからめとられている気がしてならない。国家のための人材育成なのか国民主権の人格形成なのかという問いが重要である。利権的でない、教育的な論議が待たれる。

*2:ESAT-Jは、2022年11月27日実施予定。

*3:生徒の発話をうながす評価活動が教育活動として不可能であると言っているわけではありません。また意味がないと言っているわけでもありません。通常授業中のインタビューテストなどで積極的におこなってもよい評価活動ではありますが、生徒どうしを比較して合否を決めるような点数評価として、たとえば入試に使うことは避けるべきというのがその主旨です。

*4:異文化コミュニケーションの専門家である鳥飼玖美子氏は、定型表現を暗記したとしても、それが実際に使う場面で使えるかというと単純にはつながらない。中学校3年生に要求する試験として、定型表現を暗記させ、あたかも流暢に話しをしているかのようにさせるのは、英語教育の視点から考えて疑問があると、外国語における会話というのはそれほど単純なものではないと喝破されている。さらにプレテストの結果の評価コメントを見て驚いたという。評価コメントには、ぺらぺら喋ることが大事であるかのように、よどみなく話せるように頑張りましょう、1分間の間にどれだけスラスラ言えるかというような文句が並んでいたからだ。母語話者ですら、自分で考えながら大事なことを話すときには、考えながら、よどみながら話をするものだと。立て板に水だけがいいわけではない。

*5:都立入試での自校作成校とその対策 | 東京ナビ (tokyonavi.info)

*6:阿部公彦東京大学教授) 、鳥飼玖美子 (立教大学名誉教授) 、南風原朝和東京大学名誉教授) 、羽藤由美 (京都工芸繊維大学名誉教授) 、大津由紀雄慶應義塾大学名誉教授)氏らが都教育庁に提出したESAT-Jに関する要望書<2022年10月14日>は、「1 不公平な入学者選抜が行われる可能性が高いこと2 円滑な試験運営ができない可能性が高いこと」として、「都立高校入学者選抜に中学校英語スピーキングテスト(ESAT-J)の結果を使用しないことを要望」している。