「英語能力試験は必要ですか?」(スティーブ・カウフマン)

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 以下は、スティーブ・カウフマン氏の「英語能力試験は必要ですか?」(2008年)のあらまし。本動画は、日本語によるものなので、実際に動画をみてほしい。以下は、聞き起こしではなく、氏のお話のあらましを主観的に編集したもの。

 自分は、これまで日本語も含めて10か国語くらい学び、実際に使って話してきた。
 自分の経験では、コトバを学ぶうえでテストを受けた経験はないし、テストで学んだこともない。テストは意味がないと考えているし、正直テストは受けたくない。
 日本では、英検、TOEIC、IELTSと、テストに関する参考書が多く、テストしか考えていない印象がある。

 自分の考えでは、コトバを学ぶ目的はコミュニケーションであり、コトバを話すことは、歩く、走るという日常生活と同じで、テストはする必要がない。

 たとえばテニスであれば実際に試合をおこなえば実力はわかる。何点などと点数をつけても意味がない。
 同じく、ある人がその外国語ができるかどうかは、座って話をすればわかる。商売の交渉でも力がわかる。
 アメリカのマクグローヒル(McGraw-Hill)出版会社。テストはビッグビジネス。たくさんの人間がテストのために働き、宣伝活動・販売活動と忙しい。テストが実施できればそのための参考書をたくさん売ることができる。でも、基本はコトバ。コトバそのものに学習者は接近しなければいけない。

 コトバというものは、たとえば英語を使う機会がなければ、また興味がなければ、上達しないもの。だから、英語を使う機会ができたり、仕事で必要になれば、すぐ(十分とはいえないまでも)できるようになる。
 自分の経験でも、外国語は、うまくできるときもあるし、間違うときもある。次の機会にうまくいくこともある。そうしたものをテストで計ることは無意味。
 例えてみれば、テストは、コトバの能力の、ひとつの「写真」。その人のちからを「写真」を撮影して切り取るようなもの。本人のコトバの能力は流動的なもので、その日は良かったり、別の日は悪かったりと、まずその評価は正しくない。テストは無意味。
 コトバの力は、コミュニケーション。テストは一切止めたほうがよい。
 テストに時間をかけるよりも、外国語で学ぶ際に、面白い内容を探すとか、意味のあるコミュニケーションを求めるとか。そのコトバを学びたくなるような、コトバを楽しく学ぶために、条件を整のえることを考えたほうがよい。
 テストは目的ではない。テストが目的になったら、本来の目的を忘れることになる。
 もし仮にTOEICやらなければならない、TOEFLをやらなければならないとしても、正しく学んでもらいたい。それは、全体的な力を伸ばすこと。テストは無視して、聞く・読むを増やして全体のちからを伸ばしてもらいたい。

 スティーブ・カウフマン氏自身も2007年にLingQを始めたので、これもビジネスと言えるが、多言語話者の実践者であるカウフマン氏の経験談はとても興味深い。また、その主張には妥当性があると思う。

 第一に、カウフマン氏は、多くの言語を学んできたにもかかわらず、これまでテストを受けたことがないという。実際にたくさんの言語を話せる多言語話者のカウフマン氏がテストは必要ないというのは説得力がある。

 氏の方法は、まずなんとしても語彙を学ぶ。大量のリスニング・リーディングを通じて語彙を学ぶ。そしてそのコトバを理解(comprehension)する。大量のインプットを前提としてアウトプットをおこなう。たとえ忘れたとしてもひとつひとつの語彙を学ぶことは全く無駄にならないという氏の考え方に言語の自然のあり方を踏まえたプラス思考を感じるが、さらに完璧主義者でないところがよいと思う。にもかかわらずカウフマン氏の発話はコミュニケーション上支障がない水準であることに驚かされる。

 第二に、他の動画を見ても感じることだが、日本が置かれている言語環境や外国語についての日本人の必要性に関して理解が深いことだ。さらに学習者の興味を考えることが重要であるというカウフマン氏の考え方には納得せざるをえない。

 コトバは覚えて忘れる。忘れては覚える。長い経過であり、そうして学んだ結果としてのコトバの総体である。日本の言語環境において必要性や興味、そして動機を考えても、一斉英語スピーキングテストは必要ないと考えざるをえない。

 第三に、本動画で強調されている、コトバの学びにとってテストで計ることは似つかわしくないという考え方に賛同する。

 カウフマン氏がいうように、スピーキングテストは、学習者のある瞬間の「写真」(スティーブ・カウフマン)に過ぎない。そんな「写真」を撮ったとしても言語能力の実態はわからないと考えるのが普通だろう。しかも、そのようなろくでもないテストのために、(今回のESAT-Jのように)膨大な時間と労力とがかかる。無意味としかいいようがない。

 第四に、カウフマン氏は、テストは止めて、生徒がコトバを学びたくなるような動機づけ、興味づけ、コトバを楽しく学ぶように誘うことが大切だと強調している。この点はとても重要な指摘だ。別の動画でも、テストの考え方は罰を与える(penalizing)もの、もっと脳が楽しく受け止められるような状況・環境をつくることが大切だと強調していた。

 日本の教育は、ともすれば、国の都合、企業や会社の都合、文科省の都合、学校の都合、大人の都合というベクトルが強く、学習の当事者である生徒からのベクトルがきわめて弱い。

 学習はなんのためにあるのか。国のためか。企業や会社のためか。

 生徒・子どものためではないのか。

 外国語の学習は途中で放棄することが多い。なぜか。それは、ひとつには、カウフマン氏が言うように、学習者の興味・関心を軽視しているからだ。学習者の動機を深め強めていないからだ。強制や脅しで学びが継続するはずもないが、それが脳にとって楽しいことであれば継続していくだろう。カウフマン氏は、英語もフランス語も周囲にあるカナダで学生をしていたが、大学で、ある教授からの刺激でフランス語を真剣にやる気になったというようなことを言っていた。それはフランス文化やフランスに興味を持ったからだという。

 だから、生徒の興味・関心を軽視・無視して、テストで脅すテスト主義や完全主義など、真っ先にあらためないといけない悪習である。いま必要なことは、民間試験の導入ではなく、生徒の学習意欲を引き出す学校教育現場の条件を整えることだろう。

 第五に、テストはビッグビジネスだということ。この点も、教育をビジネスの食い物にする考え方がますます浸透している日本の教育にとってまさに考えるべき問題である。生徒のためとうそぶきながら、民間試験の導入は、政治家や企業や会社のためになっていやしないか。

 LingQを開めたカウフマン氏のLingQもビジネスとひとつと言えるだろうが*1、氏の話は、、コトバの学び方として、傾聴に値すると思う。

*1:氏がLingQの広告塔の役割を果たしているにせよ、氏の経験談は大いに役立つと思う。