ハロウィーンの歴史を少し学んでみた

 私大付属高でかけだし英語教師の頃、サンフランシスコで英語集中講座を受けたことがあった。10月31日が近づいてきたとき、クラスメートと一緒にハロウィーン*1パーティをやった。といっても日本語を学んでいる留学生たちが日本で節分の豆まきをやった程度の体験だから、これはたいした経験ではない。日本に帰国して授業中"treat"という単語が登場すると、"trick or treat"を例文に使ったり、髪の手入れの宣伝でトリートメントを生徒が知っていたのでtreatmentという派生語を教えたり、よく唄の歌詞に使われる"Treat me right"を例文を使ったりした。他の教科書で五月祭というレッスンがあって個人的にMay Dayについて深めていたとき*2に、労働者のメーデーは近年のもので、May Dayとは本来古代ケルトの暦と関係していることを知った。その後、アオテアロアニュージーランドにホームステイしたとき、お世話になっていたイングランド系のご夫婦がハローウィーンを快く思っていないことを知ってその歴史的・社会的文脈を再確認した経験もある。イギリスではハローウィーンお断りの家庭用ポスターをダウンロードできることものちに知った。

 YouTubeで、ハロウィーンの歴史を少し調べてみた。

 短いのも入れていくつか見てみたが、少し長いけれど、例えば、以下のHistory Channelのものも参考になった。

The Real Story of Halloween - The History channel - Bing video

 まず、ハロウィーンの起源をおさえたい。

 ハロウィーンは、古代ケルト民族の、2000年前ともいわれるサーウィン(Samhain)*3が起源とされている。

 ケルトの暦によれば、1年を二分化し、5月1日のメーデーをベルテイン(Beltane)、10月31日・11月1日をサーウィン(Samhain)といって、このふたつが大切な区切りとなる。

 サーウィンは、「夏の終わり」であり、「冬の始まり」であり、「新年の始まり」でもある。

 一年を二分化して考えるわけだが、「明と暗」(the light and the dark)ということになる。

 ベルテイン(Beltane)(メーデー)は、「夏の始まり」であり、いのちの輝き、草花が花開く時期を迎えることになる。樹木を崇め*4、自然を崇拝していた古代ケルトドルイド教*5にとって、サーウィンは冬の始まりであり、暗い祭りであった。サーウィンは、bon fireの火で明るくする火の祭り。このbonは、bone(骨)に由来するという説もあり、ドルイドにとって、サーウィンは死の祭典(celebration of death)であった。脈絡は全くないのだけれど、死人が大地を訪問するというのは、日本のお盆のようなイメージと重なる。

 起源の次におさえたいことは、かたちを変遷させているとはいえ、なぜこんな古いケルトの風習が、現代まで生き残り、続いているのかということだ。それは、古代ローマ帝国古代ローマ人によるケルトの征服*6と、キリスト教(ローマカトリック)が関係している。古いケルトの風習を、キリスト教(ローマカトリック)が生き残させ、広げたと言ってもよい。

 7世紀のアイルランドブリテン
 ローマカトリックの神の名のもとに、グレゴリー1世教皇(Pope Gregory the 1st)が アイルランドブリテンケルトドルイド教からキリスト教への改宗(conversion)をせまった。
 「(ローマカトリックは)サーウィンは始末せず、サーウィンを取り入れた。けれども名前は変えた(They didn't do away with samhain, they adopted it but changed the names.)

 ここが味噌ですね。

 征服はするけれど全てを奪うことはしない*7。古代ケルトドルイド教を征服した側が、その自然崇拝・樹木崇拝を、リースやクリスマスツリーというかたちで、その一部を取り入れたように、かたちとしてサーウィン( Samhain)を残して、ローマカトリックにとってサーウィンを、その名前を変えて「諸聖人の日」(All Saints Day)という扱いにしたのだ。そして、834年にグレゴリー3世教皇が、「諸聖人の日」を、5月13日から11月1日に正式に移動させた。ここから、10月31日は諸聖人の日の全日(All Hallows' Eve)*8となり、今日のハロウィーン(Halloween)となった。中世のブリテン島では、ローマカトリックの影響から、11月2日を「死者の日」(All Souls Day)とした。カトリックでは「煉獄」(purgatory)から逃れるには、ソウルケーキ(soul cakes)を求める物乞いには、食べ物を与えるべきという考え方があり、マスクで顔を隠して地域をまわり食べ物やお金を求め、代わりに詩をそらんじたりしたという(souling and guising)。これが、今日の「お菓子をくれなきゃイタズラするぞ」("trick or treat")の風習につながったという説もあるが、関連しないという説もあるようだ*9

 さて、最後に、アメリカ新大陸の話をする*10

 新大陸に渡ったピューリタンたちにとっては、ハロウィーンはあまりに異教徒的(pagan)で、カトリック的だったから、ピューリタンハロウィーンを禁じた。

 19世紀半ばにアイルランドでジャガイモが疫病にかかって大飢饉が起こり、多くのアイルランド人が海を渡り移民としてアメリカ合州国に向かった。そのアイルランド人やスコットランドアイルランド人が新大陸にハロウィーンを持ち込んだのが新大陸でのハロウィーンの由来となる。

 同じく19世紀半ば、アメリカ合州国では、4年にわたる南北戦争で歴史上名前を知られることのないおびただしい厖大な死者が出現した。北軍と南軍の両軍合わせて50万人近くが戦死し、合州国史上最悪の戦没者数となった。もしかして死んでいないのではないか、ひょっとして生き返ってくるのではないかと、この惨禍からハロウィーンの意味があらためて始まったともいわれる。ジャックオーランタンに、カブ(turnips)が使われていたものがカボチャ(pumpkins)になったり、trick or treating (もともと腹をすかした悪霊に食べ物を与えないと悪さをするということから)も広がり、よりアメリカ的なかたちでハローウィンが盛んになった。
 たとえば、1920年代、アイルランドスコットランドの移民の子どもたちが、窓ガラスや自動車のフロントガラスを割ったり、火をつけたり、家畜の柵の門を開けて家畜を逃がしたりと、イタズラが過激化して破壊的になったという歴史がある。イタズラは、大恐慌時にはさらに悪化したという。1930年代には、こうしたあくどいイタズラをパーティ化する試みがみられ、いたずらの夜からパーティの夜に(from prank night to party night)する試みが広がっていった。

 家庭で作っていたハロウィーンの衣装も商業化された。通りでのハロウィーンパレードも始まった。お菓子も、手作りから、ハーシーのチョコレートなど、大量生産され市販で売られているお菓子に変わった。ハロウィーンは、チャーリーブラウンのマンガに登場し、ハロウィーンのホラー映画もつくられた。

 1950年代以降、ハロウィーンは、家庭的(family-friendly)、子ども中心(kid-centered)のものになり、クリスマスに次いで、ますます商業化したビッグビジネス(big business)*11となった。

 今日子どもたちが地域をまわることにはさまざまなリスクがあり、ハロウィーンは、大人の祭りと変化している。

 こうした変遷はありながらも、今日のハロウィーンも、自分も悪霊の仲間だと知らしめ悪霊から身を隠すためのドレスアップ(コスプレ)や、死の祝いととらえたドルイド教のサーウィンから、あい変わらず死のイメージをもっているし、伝説や、ナッツやリンゴなどの食べ物も受け継いでいる。

 宗教的意味合いはなくなりつつあり、まさにイベント化しているハロウィーン*12だが、古代ケルトのサーウィン、ローマカトリック支配によるサーウィンの取り込み、アメリカ合州国に渡ったハロウィーン、その変遷と、以上、動画から学んだことを少し書いてみた。

*1:日本語表記の仕方として、昔はハローウィーンという記述が多かった記憶がある。いつの間にかハロウィーンやハロウィンが使われるようになった。

*2:イギリスの歴史と文学を考えるうえで森というキーワードを使って自然対文明という文明論・文化史を考えた好著に「森のイングランド」がある。川崎寿彦氏の「森のイングランド」は、五月祭を考える際にも参考になった。

*3:サーウィンとは10月31日の前夜祭と11月1日の祝祭のこと。

*4:「森のイングランド」に、ケルト民族のドルイド教は森の木々、「なかでもオークを崇拝し、そのオークにヤドリギが付着していれば最高に神聖な啓示として、うやうやしい儀式をとりおこなった」という。また「オーク崇拝」という点ではケルト信仰もギリシャ古来の信仰も同根と指摘している。

*5:「森のイングランド」には、「<ドルイド>とはギリシャ語のdrus(木、とくにオーク)にインド・ヨーロッパ語系の語根wid(知る)がついたもの、すなわち「オークの知恵をもつ者」の意であろう」とある。

*6:「森のイングランド」によれば、「森そのものを神聖と考えていた」ドルイド教徒たちが自然崇拝文化だとすれば、「石の文明と宗教」「石の教会」など「石造りの神殿を建て」たローマ文明とは、「野蛮」と「文明」として対立していた。ドルイドは森に君臨し、「人身御供の悪習」もあったとされる森の野蛮人にローマ人はショックを受けたともいわれている。ローマがガリア(ケルト)を攻めるのは、文明が森の野蛮を攻める行為であった。ドルイドの総本山はブリテン島であり、ローマ軍は各地で森を切った。それは文明の光をもたらすenlightmentであった。

*7:たとえばイングランドによるアイルランド支配。ケルト十字架は、キリスト教のシンボルである十字架と太陽をあらわす丸で構成されたハイクロス(ケルト十字)として9世紀頃につくられた。ここに見てとれるように、支配者は被支配者の支配後、被支配者の文化を狡猾に取り入れることが少なくない。

*8:hallowとはsaintのこと。

*9:trick or treatの歴史は、たしかに、soul cakesというカトリックの伝統と歴史的に関連はしていると言えるのだけれど、アメリカ合州国trick or treatingは、一般に「古いと考えられているが、実は80年くらい」と動画では言っていた識者がいた。

*10:YouTubeでは、アメリカ合州国版のハロウィーンの解説動画が多いようで、そこから歴史をたどる動画が多い印象がある。

*11:6.9billion dollarsと動画では言っていた。

*12:イベント化しつつあるハロウィーン。つい最近、韓国のソウルで悲惨な事故が起こってしまった。安全管理上の危機管理の問題が指摘されている。South Korea mourns, investigates deadly Halloween crowd crush (nbcnews.com)