「外国語学習の科学」を読んだ

外国語学習の科学






 白井恭弘さんの「外国語学習の科学 ―第二言語習得論とは何か」を読んだ。
 これも、積読したままで、今まで読まなかったものの一冊だが、いろいろと学ぶことができた。

 

 母語習得に失敗した、という話はあまり聞いたことがありません。一方、外国語の習得は、母語話者に近いレベルに達する人はほとんどいません。また、かなりできるようになる人もいれば、ほとんどしゃべれないまま終わる人も多いです。当たり前と言えば当たり前ですが、ここがこの二つの根本的な違いです。第一言語の方は、みな同様に成功する、という「均質性」があるのに対し、第二言語習得の方は、結果は様々、という「多様性」があるわけです。なぜこのような大きな違いがあるのでしょうか。

 まさに、この「なぜこのような大きな違いがあるのでしょうか」というのは、重要なクエスチョンだ。
 「日本人は英語ができない」という理由はいくつかあるが、ひとつは、「言語間の距離」。しかし「言語間の距離という点では日本語同様に不利な」アジアの諸国はある。筆者によれば、以下のように、「言語間の距離」と「動機づけの弱さ」が指摘されている。

 まず第一に重要な障害になっているのが、英語と日本語の間の距離です。つまり、学習者の母語と学習対象となる言語が似ていれば似ているほど、つまり距離が近ければ近いほど、全体としては、学習しやすいのです。

 

 日本人が英語ができない、もうひとつの大きな理由には、動機づけの弱さがあります。つまり、日本にいれば、英語が使えなくても実際問題としては困らないのです。日本国内では日本語によるメディアが非常に発達していますから、最前線の情報が日本語に翻訳されていますし、日本は科学そのものがかなり発達していますから、英語ができなくても、科学の最新の成果もある程度つかむことができます。


 これは30年以上も前になるがサンフランシスコで英語集中講座を受講したときの私の観察と合致する。
 わたしも、「言語間の距離」*1と日本の「言語環境」が二つの重要な要因と感じ続けてきた。

 それでは、「第二言語習得」におけるリアリズムはどこにあるのか。


 「外国語学習には、臨界期、すなわち、その時期を過ぎると学習が不可能になる機関がある」という有名な「臨界期仮説」。この「臨界期」は、「思春期のはじまり(一二、三歳)までで、その時期を過ぎるとネイティブのような言語能力を身につけるのは不可能になる」ということだろう。そして、それが現実なのか。これも大きなクエスチョンだ。

 

 ハワイ大学のマイケル・ロング(現メリーランド大学)は一九九〇年の臨界期仮説に関する重要な論文の中で、もし大人になってから外国語学習を始めた人でネイティブのようになったケースが一つでもあれば、それは臨界期仮説の反証になる、と主張しています。そのこともあって、本当の意味でネイティブのようになった人がいるかどうか、という研究がかなり行われています。


 筆者自身、次のように語る。

 筆者自身も、アメリカ生活は十数年、アメリカ人を相手に言語学を教えているわけですから、日本人としては英語はできる方ですが、英語の自然さに関しては帰国子女にはかないません。これが、いわゆる臨界期仮説の帰結なのです。

 つまり、第二言語というものがネイティブの水準に達するのは、夢のまた夢であって、不完全なものにならざるをえないのか。
 そうであるならば、そのことを現場の英語教師がいかに自覚し、いかに生徒指導に生かすかが問われることになりはしないか。

 他に書きたいこともあるが、別の機会としよう。

*1:Longman Dictionary of Language Teaching & Applied Linguisticsの中の"language distance"を参照のこと。