恥をさらすことになるが、私は、ある私立大学の附属高校で長年英語を教えてきたけれど英語教育実践関連の書籍をほとんど読んだことがない。
それは、第一に、自分が英語の力をつけることを何よりも優先課題に置いてきたことと、第二に、私の指導技術を向上させなくても、わたしが担当してきた生徒に力があって、あまり工夫をしなくても授業が成り立っていたからである。
私の授業は、授業そのものより、どちらかといえば授業間の余談が面白いと生徒から言われ続けてきた。自分なりの人生観や社会観、それと海外体験や、英語学習を通じて観察してきたことなどが、そうした余談である。だから教材選択や教材論には関心がある方だ。
かといって、英語のスキルを教える授業の方も、おざなりということではなかったつもりだ。自分なりに一生懸命やってきた。わかりやすい授業を心がけ、実際生徒から説明がわかりやすいと言われ続けてきた。
どうしてこうした姿勢を堅持してきたかといえば、高校での教育活動は、私見によれば、ふたつの研究をしなければならないと思い続けてきたからだ。
ひとつは、もちろん、教科活動の対照となる教科の研究。そして、もうひとつは生徒の研究である。
それでもなんでも、なんとかこれでやれてこれたのは、生徒の力が大きい。そのことをいまさらのように痛感させられている。
実際、私の高校時代、昔の高校教師は、こんなものだった。言い訳をさせてもらえば、そうした自分なりの観察から、教わった教師の枠組みを、なかなか抜けられないものなのだと思う。
私の世代の高校段階では、該当教科をとことん知っている教師が尊敬を受けたのである。つくづく、昔の高校生は力があったと言わねばならない。
実は、最近つくづく思うのだが、この他に、教育実践ベースにのせることのできる指導方法論があることにようやく気がついた。繰り返しになるが、私がこの分野の研鑽を抜きにできたのは、生徒に力があったからなのだが、生徒に助けられて、この分野を私自身さぼり続けてきた。
そのつけが今まわってきたと言えるのだろう。
キャリアを重ねた今、授業が成立しにくくなってきたのである。
ひとつには、自分自身が年齢を重ねてきた結果、生徒との年齢差もあるけれど、これはいわば授業実践の方法論研究をおざなりにしてきた罰だ。私を擁護して言えば、「猫に小判」状態が多くなってしまったのだが、そんなことを言っても始まらない。
だから、この原因は、生徒に罪はない。私の責任である。ということで、遅まきながら現在、授業改革に乗り出しているところなのだが、もっと早くにやるべきだったと後悔している。
正直私の場合、授業実践の方法論研究の優先順位はけっして高くはないけれど、それでも、さまざまな英語教育実践家の教育実践から学び始めている。
今日読み終えた畑中豊氏の「教師必携!英語授業マネジメントハンドブック (目指せ!英語授業の達人)」もそんな一冊だ。そしてこれは、良書である。
もっと若いときに本書を読んでいたらと思う。
ということで、本書を、全ての若い英語教師に推薦する。