やっぱり英語なんかに責任なんかもてないや

奥田民生の「E」

 日本の高校で英語教師をしているものがこんなことを書くと免職になるような気がするので書きづらいのだけれど、わたしは何十年もイギリス語を学んできているけれど、イギリス語なんかには責任なんか持てないというのが自分の気持ちとして正直なところだ。
 東京大学で英文学を教えていた故中野好夫さんが、たしか「英文学夜ばなし (同時代ライブラリー)」で触れておられたのだけれど、英文学の潮流を追いかけていくのは大変だというようなことを率直に書いていたと思うが、英文学の達人で、東大で英文学を教えていた学者で著名な翻訳家が言うのだから、なんとも説得力がある。アジアに住むものが英文学などに責任をもつことはむずかしいという心情の率直な吐露だと、私はこれを理解した。
 私は英文学者ではないし、そもそも故中野好夫さんと私などを比べるのもおこがましく、この大学者の足元にも及ばないのであるから、比較しているつもりなどさらさらない。ただ、たまたま今ニュージーランドの大学院で授業を受けているのだけれど、イギリス語というと、読解においてさえ、本質的な深い理解となると自信がない。第一、大量に読むことが億劫だ。会話でも、瞬時に気のきいたことが言えない。書くとなると、もっと大変。これでいいのかという最終判断が持てないのだ。いつも手袋をしながら、コトバに触っているような感じがぬぐえない。
 コミュニケーションとしては、互いに理解し合いましょうという状況的な条件が整えば全く問題はない。だけど母語話者のようかといえば、それはやはり違う。
 世の中には、頭のいい人もいるし、天才的に外国語に堪能な人もいる。また環境的に鍛えられて、母語ではないけれど、母語のようなレベルに到達した人もいるだろう。しかし、言語というものは、相当に深いものだから、外国語の習得といっても、そう簡単ではないと私は思っている。
 私には大学時代の気の合う仲間がいるのだけれど、この連中と会うと、日本語による会話の達人が多いので、私は終始寡黙にならざるをえないのだが、通常わたしは結構喋る方だ。
 だけど、外国語となると全く話は違う。状況によっては面倒くさくて寡黙になるから、性格だって違う印象で受け取られてしまう。また逆に、イギリス語だと、やたら陽気になって喋るときもあるから、ますます自分の性格がわからなくなる。それほど、言語というものは、モードが違うと、性格の現れ方にまで影響を与えるようなものなのだと思う。
 日本は、第二言語ではなしに外国語としてイギリス語を学校で学ぶことになっているのだが、私はやはり外国語は選択性にすべきだと思う。言語学習選択の多様性を認める、その方が日本のためになると思う。意味が出てくるまで外国語につき合うという作業は、何十年という単位であるから、こんな大変な作業を個人に選択させないというのは道理に合わない。
 とくにイギリス語と日本語は、構造的にも、音声学的にも、タイプが違う。いま私はマオリ語学習に突入してから2ヶ月が経つけれど、はっきりいって、同じ時間をかけるなら、マオリ語の方が母語話者に近づける自信がある。それほど日本語とイギリス語って奴はタイプが違うコトバだと思うのである。
 このことは前にも紹介したが、梅棹忠夫氏との対談で和田祐一氏だったか、言語のタイポロジーの話があって、構造的に似ている言語はやりやすいという話がある。日本語は、朝鮮語はもちろん、むしろモンゴル語に近いという話があって、言語学者である田中克彦氏の書かれた著作の中でも、日本人がモンゴル語をやるととてもうまい人が出てくるという話を聞いたこともある。
 だけど、「言語学的に近いからどうなんだ」「マオリ語なんかやってどうするの」「やっぱり英語でしょ」という反論がすぐに聞こえてきそうだ。
 英米コンプレックスについては、岸田秀氏に言わせると、たしか「黒船」による「強姦」というような厳しいコトバで表現されたことがあったと思うけれど、20世紀は英米の時代だったわけで、この英米をどう考えるのかというのは今なお大問題だ。
 実際、イングランドというひとつの地方のイングランド語が、今日のイギリス語言語文化圏をつくったのだから、イギリスという国の功罪には深いものがある。UKの中でみたって、スコットランドウエールズイングランドとの歴史的な支配・被支配の関係はもちろん無視できないし、アイルランドなんかは、760年もの間、イギリスに支配されてきたのだ。
 大英連邦ということでは、イングランドは、アメリカ合州国も、カナダも、オーストラリアも、私がいま住んでいるニュージーランドも含めて、とんでもないほど広大な一大イギリス語文化圏をつくりあげてきた。この過程の中で、アメリカ合州国ネイティブアメリカン、オーストラリアはアボリジニニュージーランドマオリが、それぞれどういう変遷をたどることになったかは想像に難くない。
 日本はどうかというと、黒船来航から、脱亜入欧明治維新に至って、近代化しながら、まさにイギリスばりの悪い役割をアジアで果たすことになった。例えばシンガポールのように、ヨーロッパの列強に支配されたのち、解放の戦士と期待した日本から、もっとひどいことをされたというような話は残念ながらアジアのあちこちにある。
 ところで、世界にはピジンイングリッシュなるものがたくさんあると思うけれど、それはイギリスが作ったものに他ならない。とにかくイギリスという国の責任は重いのだ。
 イギリスは、応用言語学なんかでも、かなり細かく調べているから、研究的な蓄積がある。例えば、日本人の英語の発音問題、中国人の英語の発音問題と、音声学ひとつをとってみても、やたら詳しい研究がある。私なんかの感覚だと、こうした研究論文を読むと、嫌な気持ちになることが少なくない。結局、応用言語学は、イギリス語のできない連中にイギリス語をいかにうまく教えるかということだから、生来的に、対等・平等の関係になりにくい。それに、なんというのか、頭のいい奴に対するやっかみもある。頭がいい割には、いや逆に、頭がいいから悪いことをしている奴に対する反発がある。そんな頭の良さなんか認めないという態度の方が気持ちのいいものだ。
 日本はこの点が中途半端だから、気持ちがよくない。私の思想的立場は、おそらく、世界のスタンダードであるイギリス・アメリカ合州国なんかに馬鹿にされないように、われわれの母語である日本語で、もっと頭脳を明晰にして、単にビジネスに成功するというようなセコイ考えではなく、気持ち的にも広くなって、なんというのか、世界に対しても貢献できないのかという苛立ちがある。
 それじゃ、英語教育は一体全体どうしたらいいのかということになる。
 私なりの答えは、外国語学習は、選択性にすべきというのがまずある。
 それから、もし仮に英語をやるとしたら、今の時代にあって、イギリス語をやる意義や意味を考え、その意義や意味を教えることはやはり不可欠だと思う。その際、少なくともまず日本語に誇りをもって、日本語でこそもっと思考力を身につけて、その上で、プラスとして英語も学んでやるという意識が必要だろう。大言語に迎合せず、それくらい突き放した姿勢で英語というものにつき合えれば、もう少しイギリス語の学習にも戦略的になることができて、コトバも身につくようになると思う。
 今の日本のような植民地的精神土壌では、われわれは日本語で賢くなることも、英語をしっかり学ぶことも、両方ともできないと私は見ている。
 ともかく、そろそろ英米コンプレックス*1を治さないといけない。

*1:英米コンプレックスの裏返しとして、朝鮮語をはじめ、アジアのコトバに対する蔑視観がある。英米コンプレックスから抜け出すことは、こうした蔑視観から脱することをも同様に意味する。