ワイタンギ条約をめぐる異議申し立ては、審判所でなされる

The Treaty of Waitangi

 クローディア=オレンジ(Claudia Orange)氏は、ワイタンギ条約に関わる歴史研究者で、オークランド大学で歴史を教えた経験をもっている。彼女は、マオリ問題が日常的話題となる地域・家庭環境に育ち、ワイタンギ審判所や裁判公聴会に関わる議論に一貫して関わってきた。
 言うまでもなく、ワイタンギ条約は、1840年に、500名以上のマオリの代表者(チーフ)と、イギリス国家を代表するウィリアム=ホブソン(William Hobson)とによって、署名されたアオテアロアではきわめて重要な歴史的文書だ。
 そのワイタンギ条約が署名された2月6日が近づいている。この日は、ワイタンギの日(Waitangi Day)といって、いわば建国の日として祭日になっている。
 イギリス国家にとってみれば、ワイタンギ条約は、ニュージーランド全土にわたる主権(sovereignty)を獲得するための手段だった。しかし、マオリにとってみれば、ワイタンギ条約は大変違った意味を持っていて、今日なお、この条約によって、マオリは大きな影響を受けてきたし、今日なお受けている。それも、しばしば不利な状況で。ワイタンギ条約をめぐっての議論は絶えず、したがって、ワイタンギ条約の重要性は、言うまでもなく大きい。
 クローディア=オレンジ氏の「ワイタンギ条約」は、ワイタンギ条約に関する、最初の包括的な研究書であり、初級のマオリ語を私に教えてくれた講師も、研究室の書棚に一冊持っていた。
 さて次に、マオリ公用語化に関連する箇所の一節を引用するが、その前に、この中に出てくるワイタンギ審判所(Waitangi Tribunal)について少しだけ触れておこう。
 ワイタンギ審判所とは、ワイタンギ条約違反についての請求が積極的に認められるようになり、その申し立てを調整する機関である。いわば、裁判と調停をおこなう機関を、ワイタンギ審判所(Tribunal)と呼んでいる。この審判所は、1975年のワイタンギ条約法によって1975年に設立された。
 審判所であるから、一般に、政府を拘束せず、勧告をおこなうに過ぎないが、これまでマオリの権利擁護のために審判所が大きく貢献してきていることは否定できない*1
 とりわけ、審議の対象が、設立当初においては、1975年以降の件に限られていたものが、1985年のワイタンギ条約法改正法によって、1840年のワイタンギ条約締結時にまでさかのぼって認めるという画期的な修正がされた。
 「ニュージーランド先住民マオリの人権と文化 (世界人権問題叢書)」(明石書店)によれば、「現在、国土の三分の二は不法略奪と想定されている」という。

*1:このマオリ審判所については、日本で手に入る文献としては、「ニュージーランド先住民マオリの人権と文化 (世界人権問題叢書)」(明石書店)に詳しい。