学力問題では、最近2こぶラクダの二極分解という状況を呈するらしい。塾に行ける子どもと、塾に行けない子どもと二極分解しているようだが、最近発行された岩波ブックレットなどを読むと、塾に行っていなかった昔の子どもたちの平均値と、現在塾に行っている子どもたちの平均値とでは、ある調査によれば、塾に行っていなかった昔の子どもの平均値の方が高いようだ。そして、これは、私の長い教師歴からの実感でもある。
自分でやらないといけない部分を、塾の先生や保護者がやってしまうものだから、それに従っているうちはそれなりに点数も取れるけれど、プリントがなければ勉強ができないというように自主性が育たず、悪循環の状況があるようだ。自分でノートが作れない。話を聞きながら、メモが取れない。こうした生徒が少なくない。
これは自慢ではなく、単なる時代状況なのだと思うが、私の高校時代は塾も行かなかったけれども、英語は高校一年から自分でノートをつくって勉強していた。その古ぼけた教科書とノートをいまだ私は後生大事に持っていて、毎年それを生徒に見せているのだが、そうした後姿を見せるだけで学んでくれる生徒は今や非常に少なくなってしまった。
今年から、英語の不規則動詞の活用など、これまで中学生の段階で習得できていたことが充分ではないので、高校教師になって初めて授業中に指導するようになっている。学力不振の生徒には、不規則動詞の活用を何度やっても定着しない。何故かというと、他人事のように、ただ見ているだけだからである。その場をやり過ごすだけという生徒が多くなった。それで、知識の少ない生徒や、抽象化能力の低い生徒に対して、どこから攻めていったらよいのか、教壇で立ち往生することも少なくない。 みんな反抗的ではなく、「いい子」だから一層始末が悪い。
授業中のコミュニケーションがうまくいかないのは、私のせいでもあり、生徒のせいでもあり、また双方のせいでもある。ぼやいてばかりいても仕方がないので、私の方から一段も二段も三段も降りて行かないといけないと思って、コミュニケーションをはかり、新たな授業構想を練り始めている。
この年齢になって自分を変えるのはとても抵抗も困難もあるのだが、生徒に変わってほしいのは山々でも、まずは自分が変わらないといけない。これは鉄則だろう。