映画「告白」を観た

映画「告白」

 大変忙しく映画など観ている暇もないのだが、出版社に勤める編集者の知人が映画「告白」は観た方がいいというので大いに気になって今日見てきた。
 ミステリーとか、殺人や暴力、憎しみや相互不信を材料とする映画は私の好みではないのだが、結論から言うと、これはすごい映画だ。
 フィクションではあるけれど、確実に、人間の葛藤、現代日本の断片をとらえている。原作は、ベストセラーになった湊かなえ原作のミステリー小説。
 生徒役の子どもたちをはじめとして、何より、松たか子木村佳乃らの俳優の演技が素晴らしい。彼女らのそうした素晴らしい演技を引き出しているのも、おそらく監督・脚本の中島哲也氏の力量であろう。
 黒沢明の「羅生門」のように、同一場面や、多少重なる場面を、それぞれの「告白」で埋めていく演出力と編集能力もさることながら、個々の人間の認識が多面鏡のように語られていくのだが、何が真実なのか判然としない中で、ドラマが進行していく。思うに、実際の生活も、その認識は、各自によって異なる。いわば、きわめて相対的なものであり、その点が容易に理解できる本映画は、その意味で妙にリアルに映る。
 最後のシーンも印象深い。一体何が真実なのか。松たか子演じる教師の気持ちはどの辺にあるのか。単純なようでいて深く、また深いようでいてシンプルだ。
 現実社会において、さまざまな残虐な事件が起こる現代日本の中で、映画くらいはヒューマンなものを観たいという嗜好性の強い私だけれど、「告白」は例外的にお薦めしたい映画の1本である。
 そうした感想をもちながら、またあらためて考え直してみると、あのような女性教師のパーソナリティが説得力をもったり、そもそもバイオレンスを扱う映画が嫌いな私ですら説得力を認め映画としてお薦めしてしまうなんて、本当に日本は病んでいるということなのだろう。
 明治時代に大森貝塚を発見したあのエドワード・モースが描いた子どもの天国としての日本は過去のものとなってしまった。勘違いしてか誤ってかわからないが、中途半端に西洋のロジックを学んだ日本はどこで道を間違えてしまったのか。
 “We’re OK; therefore I’m OK”-societyという、他人を敬い他人に配慮する相互信頼の社会が、”I’m OK; therefore I’m OK”-societyという、自己中心的な相互不信の社会になってしまったことを、どのように考えたらよいのか。
 映画「告白」は、見る者にとって、いろいろな内容を考えさせてくれるに違いない。やはりそれは、「大変残念ながら」とあえて言うが、この映画が現代日本を明快に切り取っているからに他ならない。