「級から段へ」松本道弘(1988) を読んだ

 「級から段へ」松本道弘(1988)を読んだ。

 「英語の学習法においても、長期的な視点から戦略を立てる日本人がほとんどいない」と著者自身が書いているように、英語学習を続けることが長期的にみてどうなっていくのか、いわゆる見通し路線が、全体像や構図がどうなっているのか、明らかにしている考察はほとんどないと言ってよい。その点が、松本道弘氏の経験談に惹かれる理由のひとつだ。松本道弘氏は、英語道という道すじとランキングを提唱されているので参考になる*1

 もっとも、2級だ、1級だといっても、英語学習の成果とそれが人格に及ぼす影響は、デジタル的な区切りではありえず、実態はアナログ的な連続線だろうから、ランク認定には誤解もあるだろうし、実際よくわからないところがある。

級から段へ (1988)

 著者が言うように、島国といわれる日本の言語社会環境は、「日本人はペーパーテストでしか育てられておらず、異文化間コミュニケーションに関しては赤ん坊だということだ」。 "The Japanese are spoon-fed, paper-tested babies in the field of international communication."ということになるのだろう。

 英語を学んでも、スピード、リズム、パワー不足は否めない。

 たとえば、以下のような級・段の指標になるような叙述をひろってみるとおもしろい。

 アメリカ英語とイギリス英語の違いについては、「2級でなんとなく感覚的に違いがわかり、1級の頃になると聞き分けができる」(p.77)。

 Michael J. Fox主演の「摩天楼はバラ色に」(The Secret of My Success)をつかった「有段者を連れて映画館へ」の話。松本氏によれば、この映画をみて「50%聴き取れたら初段、40%で1級、30%で2級、10%で4級」「字幕ができるのは有段者。訂正できれば高段者」だそうだ。

 私が関西でこのように映画館で出席をとるという授業をやったのは英語道初段の頃であったから、ちょっと無理があった。私も聴き取れない個所が多かった。だが生徒が4~3級だから、恥をかくことはない。だが、学校の授業から離れ英語道場のメンバーを連れていくときは緊張する。

 必ず外国帰りの上級者(2~1級)がいるからだ。

 (p.111~p.112)

 

 英語道1級の頃の私は、give と get の効用に気付き、「甘え」を含めほとんどの難訳語は、give と get (take)に因数分解できるのでは、と仮説を立てて、それの証明を急いだ。

 「give と get」が出版されたのは初段の後半の頃であったが、give と get が多く使われている資料(小説、マンガ、雑誌etc.)を集め、読み、聴き、英語は give と get から始まるという命題の証明にとりかかったのは1級の頃であった。そして、悪魔の誘惑に負けそうになったのもこの頃だ。

 「彼はいい子だった」が He used to be a good boy.から He did not give me any trouble.という訳に変わっていった。

 「気を回さないで」は Don't get any wrong idea (about us).となった。(p.125)

 証明はされていないが、次のような著者の仮説もおもしろい。

 日本人が英語が巧くなり、ロジックの骨がつき、背骨(principle)が身につくと、それ自体に耐えられなくなるか、その過程で従来の価値観がゆさぶられ、ノイローゼ症状を起こす。これが identity crisis である。芥川龍之介夏目漱石三島由紀夫ーーーかつての文豪たちが情緒不安定になり identity crisis に悩まされたのは、すべてこの1級あるいは初段の頃の、心の中に生じる価値観の葛藤(value conflict)ゆえであったように思われる。

 著者は、The Left-Handed Dictionary  を紹介している。

 たとえば bank (銀行)のユーモラスな定義。"An institution where you can borrow money if you can prove you don't need it."

 著者は言う。「このような、日本人が使えず、理解に苦しむ笑いの中には一種の左右対称のロジックと欧米特有の強弱のリズムがある。このユーモアのリズムは、1級の頃に徹底的に仕込んでおくべきである。(改行)有段者になれば、ユーモアのセンスがあるかないかで、ますます実力の差が開いてくる」。

 さらに著者によれば、「ユダヤ人のロジックがわかるには、高段者の力がいる」という。

 初段になると、書き言葉と話し言葉の間にシンボルの違いがあるのではないかという疑問がわいてくる。「これまでの英語は書き言葉を話していたのだろうか」と、考えるようになればしめたもの。(p.165)

 「和英辞典をつくる」というところで、以下の例が紹介されている。

"He's paranoid."                       「被害妄想」

"I'm a quitter."                        「三日坊主」

" larger than life " *2                      「怪物」

 こうしたいわゆる難訳語を集め、サインデンステッカー氏との共著である松本道弘氏の労作「日米口語辞典」を編んでいた頃は、自称二段だったという。

 実際に使われている英語から、該当する日本語をあてがう作業のメリットは、著者によると、以下になる。

 1.話し言葉と書き言葉の違いがわかる(話し言葉は、big word が少ないから)。

 2.実証ずみなので日常使える斬れる英語が学べる(引用符の英語が多いから)。

 3.言葉のシンボルが掴める(斬れる表現は必ず出てくるから)。

 4.語感が鍛えられる(文脈の中から学べるから)。

 5.英文雑誌の見出しがわかりやすくなる(見出しは、斬れる英語のヤマト言葉が多いから)。

 6.生きた表現で、いったん覚えると忘れない(筆記試験のためのボキャビル・テストでないから)。

 7.言葉に関するこの種の知的対決は異文化体験になる(一種の疑似体験であるから)。

 以上のように述べたあと、「斬れる話し言葉を自ら発掘することにより、有段者の道をたくましく歩むことができる」と書いている。

 「ゼロを求めて」の箇所を引用しても力不足の自分にとってはあまり意味もないが、以下は参考になった。

2~1級の頃はまだ英語で語られた内容は listen (集中して聴くこと)しなければ聴き取れなかった。たが、有段者になると、hear(集中しなくても聞こえること)しながら内容が入ってくる。(中略)

 英語道三段ぐらいになれば、アメリカのホテルの一室で、ラジオから入る英語のニュースとテレビから入る映画番組の英語を楽しみながら、買い込んだ5、6種の朝刊に目を通すことも不可能ではない。できるとはいっていない。少し無理をしているわけである。(p200-p.201)

 日本の言語環境で英語を学ぶことは、条件のないところでの、きわめて抽象度の高い作業となる。そうであるからこそ、英語学習の見通し路線を与えてくれる松本氏の経験談は参考になる。

*1:本書の「英語道入門(5級まで)」「初段への道」「初段ー国際コミュニケーターへのパスポート」「ゼロを求めて」といういくつかの柱だてを見ても、見通し路線的なものになっている。

*2:"larger than life"という表現は、Peter Gabriel の "Big Time"という唄で聞いたことがある。"Big Time"はアルバム"So"(1986)に収録。