「英語アレルギーの治し方」松本道弘(1984)を読んだ

英語アレルギーの治し方(1984)

 「英語アレルギーの治し方」松本道弘(1984)を読んだ。

 著者の経験・体験からうまれた総まとめのような本。これまで出された本の総まとめのような立ち位置の本。出版元は、朝日イブニングニュース社。

 たとえば音声について。

 英語の音とは、どんなものであろうか。一般的に、21の子音、9の母音、3つの半母音(y, w, r)、4つの stress と4つの pitch、1つの juncture(言葉の間のポーズ)、3つのterminal contours (文章を終結させるための)から成り立つ。phonemes と呼ばれる45のユニットがあるといわれている (Listening---it can change your life, Ronald)。

 高一の私は、英語がそんなに複雑なものとは知らなかった。日本語には5つしか母音がないから日本語をしゃべるのは簡単だ、と外国人は異口同音に答える。フラットだからだろう。だから日本式に発音された英語が日本人にはよくわかるのである。(p.38)

 あるいはジョークについて。「米大使館で同時通訳の修行をしていた二段の頃でも、欧米のジョークには翻弄されたものだ」と開陳する著者は次のように書く。

 見知らぬ外国人に話しかけて英会話を学ぶ二、三級の日本人に、ジョークが通じるわけがない。裏では、日本人にはジョークが通じないと言われているのに、日本人は「今日は外人と英会話ができた」と信じ込んでいる。ジョーク抜きの会話は、飛車と角を落としてもらって名人と将棋を指しているようなものである。(p.50)

 また外国人に対する苦手意識について。

 外人アレルギー患者に対し、私は、まず第一に、最初から外国人を高く評価(evaluate)するな、そして、第二に、決して「心は一つ」などと思うな、という忠告を与えたい。同じ日本人同士でも考え方が違うのだ、文化的背景の違う人間が、そう簡単にコミュニケートできるわけがない。(中略)

 外人アレルギー患者に、もう一度言う。外人とコミュニケートできないのは、英語が下手だからではない。自分というものが、ぐらついているからである。そもそも英語がうまくなったくらいでコミュニケーションがうまくいくはずがない。

 それくらいタカをくくって裸で外人とつきあうというくらいの心構えがあれば、外人アレルギーは逃げていくはずである。(p.54-p.55)

 あるいは、社会環境における安全・安心の意識について。

 「タイム」誌のシニア・ライターであるランス・モロー氏の発言は、大いにうなづける話だ。

 「日本へ来てわかったことだが、横にいる人間に対して全く警戒心を抱かない。ニューヨークにいると、前、横、斜めの人間一人一人が私を狙っているような感じがする。とにかく人がしんじられないのだ」(p.56)

 あるいは、英語と日本語の統語論の違いから、いわゆる訳読をすることは、言ってしまえば、漢文読み下し調につながるということになり、自然であると思う。したがって後戻りのクセも自然だが、そうした読み方では、コトバを自由に駆使すると言う意味では、不自然である。したがって不自然な、いわゆる「直読直解」に挑戦せざるをえない。そうした課題について、著者は次のようにいう。

 なぜ、外人同士の英語が聴き取れないのか?

 私は考え込んだ。多分、私の英語のリズムが本物ではないのだ。ようし、英語を読むのもネイティヴのリズムで読むように心掛けることだと、再び発奮する。そこでまたリーディングに戻る。自然のリズムで英語を読むという私の速読哲学は、この頃に生まれた。映画のシナリオをテキストとし、映画館に入る前に、近くの喫茶店で、速読(私の日記にも速読という言葉を使っている)をする。…わからなくても、絶対に辞書を引かず、後戻りだけはせずに読み進んだ。

 英語は後ろから前へ戻って訳すものである、と教わってきた私には、これは試練であった。戻って訳せば、百%近くわかるのに、速読すれば、理解度は二〇~三〇%以下にガタンと落ちる。単語も覚えられない。だが、私はそれを続けた。英語固有のリズムを身につけることのほうが、単語の数や文法よりも大切だと思ったからである。今思えば、苦しい修行であったが、結果的には、そのほうが正しかったのである。

 英語の自然のリズムを身につけるとはネイティヴのように聴き、読むことである。それには、インプットの過程をスピードアップする以外にない。(p.71-p.72)

 他に、learning と unlearning の話。英英辞典との英会話の話は、これまでの著者の著作物とも重なる。

 「英語を書く」のところでの次の指摘も合点がいく。

英語がまともに書ける日本人がいないとこぼしている外国人によく会うが、私に言わせると、文法というより英語そのもののリズムが欠けているからだろう。英語そのもののリズムは、自然のリズムの英語を読み、聴くことによって得られるわけで、書くことのみに専念していては、身につかないのだ。

 書かれた英文を読めば、その人の力が一目瞭然である。話された英語を聴いている限りわからないが、いったん、書かれた英語を読むと、その人の英語力のみならず、学習方法、性格(いい加減な性格か、責任感があるか)、そして、話をしている間では掴めない気質などが、手に取るようにわかる。英語を書くということは、それは恐ろしいことなのだ。(p.116)

 著者は「私は、気どらず、文章が短く、そして、声を出して読んでもリズミカルな文章を書く人が好きだ。(改行)ラッセル・ベイカーの文章など、まさに自然そのもので、各パラグラフが、一息で読めるように組み立てられている」と書いている。

 「総まとめ」のところで紹介されている次の翻訳にかんする話も興味深い。

 かつて、翻訳家を目ざしている人たちの前で授業を担当させてもらったことがある。そこで知ったことは、そのセミナーの受講者、つまり翻訳家志望者の中に、英会話に関心のある人がほとんどいない、という驚くべき事実である。翻訳させてみると、口語英語に弱いということが発覚した。論文調の英語に関してとなると、大きい辞書が一冊あれば何とか訳せる。だが、たとえそのような書き言葉の中にも、引用符付きの「語り言葉」が出てくる。そんな時に、活字信奉者は四苦八苦しがちである。欧米人が日常使うような英語のヤマト言葉はあまりにも日常語と密着しており、辞書で調べてもイメージとして捉え難いのである。

 The name of the game in Japan is haragei.を訳した人は誰もいない。この訳に関しては、サイデンステッカー氏からも私にたずねられたくらいだから、一般の翻訳者には歯が立たないはずだ。日米難訳語の草分け的存在であるSという評論家でも、That's the name of the game. を(それはゲームの名前だ)と訳すくらいだからだ。

 だが、ある日、サイマル・アカデミーで講演を頼まれた時に、同じ質問を同時通訳を志す人達に投げかけてみた。

 誰も答えなかったので、やはりだめかと諦めかけたところ、ある国際通訳修行中のアメリカの婦人が、「勝負は腹芸で決まる」と訳され、私は思わずヒザを打った。日本人でも使えない日本語で、私は一本とられたような気がした。そのアメリカ人は、the name of the game という言葉のリズムをイメージとして捉えていたのである。ところが、英語を耳から学んでいない大概の日本人は、ゲームという言葉の発想すらパタン認識できないのである。

 「勝負は…で決まる」

 たしかに、その語られた言葉が絵になっている。

 翻訳者の卵への臨時レッスンで、私はたしかこうしめくくった。

 「英語の活字を耳で聴きなさい」(p.195-p.196)

 翻訳にしても、通訳にしても、イメージやシンボルの交換が大切ということなのだろう。

 「「英語で考える」とは、つまるところ image thinking のことではないかと」「できる通訳者というのは、…語り言葉が絵になっているということである」「聞きづらい通訳というのは、通訳者がスピーカーの英語を完全にイメージとして捉えていないからである。 Poor interpreters are poor image thinkers. だと私が言う理由はそこにある」。

 「一字一句忠実に訳さねばならぬという翻訳者としての意地もあろうが、文脈の”流れ”を重視して、時には通訳調に語り言葉で翻訳してみるのも、許されるべきリスクといえよう」「翻訳の道を志す人は、言語の四機能(聴く、読む、書く、話す)のすべてに、ある程度は通暁しておく必要がある」。

 他にも面白かったところもあるが、今日はこの辺にしておく。