「FEN」を聴く リズムで学ぶリスニング」松本道弘(1982) を読んだ

 

FEN」を聴く(1982)

 「FEN」を聴く リズムで学ぶリスニング」松本道弘(1982)を読んだ。

 FENをかけっぱなしにしている原宿あたりの店の話が「はじめに」のところででてくる。関東の人間は「あんな速い英語が聞きとれるのだから」「すごい」と著者が「驚いた」とある。これは「見当違いもいいところだった」と書いているが、関東人がFENの英語を理解していると推測するこの話は、著者のまぁ誇張した話でレトリックだろう。ただ、「彼らは、音楽を聴き、英語は単に聞いているだけであったのだ。だから、音楽を聞き、英語を聴く私には、違和感を禁じ得なかった」として、「hear English (英語を聞くー英語が聞こえてくる) listen to English (英語を聴く) とは、似て非なるものである」という指摘は、よくわかる話だ。

 FEN (Far East Network)は、言うまでもなく、在日米軍向けの極東軍事放送だが、自分も shadow listnerとして、英語学習の「教材」として、聞いたり(hear)、それこそ聴いたり(listen)している。

 hear と listen の話では、著者の学生時代の話で、短波放送で聴いたという「オーケーカー」の話がおもしろい。

 ポピュラー音楽などは構えず、リラックスして聴けという人は多い。だが、私からいわせれば、リラックスして聴けるなら問題はない。リラックスして聴けなかったから、真剣に聴いた (listened hard) のである。

 (中略)ときには、リラックスして聴く empty listening (ぼんやり聴くこと)も必要であろう。だが、一度も構えず、集中もせず、毎朝毎晩FENを聴いているだけ*1で、自然にリスニングが身につくというほど英語の学習はラクではない。

 要するに、hearするだけではなく、真剣にlistenしなければ英語は上達しないということだ。(p.19-p.20)

 著者は、ときどき、ポピュラー音楽のディクテーションをクラスでさせることがあると書いているが、ポピュラー音楽のディクテーションは、英語学習としてきわめて有効だろう。

 構えずFENを聞きっぱなしにしてもリスニングに強くなるわけではないということのひとつの理由はこういうことだ。

 たとえば、先述の Old Cape Cod (なつかしのタラ岬)である。オールド、ケイプ、コッドではなく、オーケーカーであるという英語独特のリズムを覚えたところで、これがメイフラワー号が新大陸に漂着したプリモス港のあるタラ岬であるという状況が浮かばなければ、ピンとこない。こうなれば、リスニングだけの問題ではなく、常識の問題でもあり、その人のトータルな知識 ( a frame of reference) の問題でもある。

 できれば、アメリカの歴史などは、英語で読んでおけば、想像力が増し、前後関係から聴きとれない英語(個有名詞*2を含め)を聴きとることもできるようになるだろう。もっとも、歴史の本をひもとかずとも、タラ岬を訪れたことのある人なら、Cape Codが瞬時に聴きとれるだろう。(p.22)

 「知識・情報・想像力を活用せよ」ということになるのだろう。著者は、「このようなリスニング情報の受け皿を、多読、乱読で補ったのである」と書いている。

 著者による興味深い指摘のひとつは、より自然なコトバを身につけるためには、「learn(学ぶ)と、unlearn (捨てる)の絶え間のないプロセス」が必要だという指摘だ。

 著者によれば、たとえば、”He is good at skiing/ cooking/ playing tennis/ painting/ swimming” よりも、”He's a good skier/ a cook/ a tennis player/ a painter/ a swimmer” のほうが、「リズム感がある」という。「文法的にみてどちらも正しいとすれば、あとはリズムの問題である」と。なるほど。

 このリズㇺの有無を学ぶのは、教科書ではない。自然な環境で、自然に語られた、自然な英語でなくてはならない。そうなれば、多読、多聴に限る。

 私の考えでは、英語を学ぶ場合でも Quick learners must be quick unlearners でなくてはならないと思う。

 記憶力のいい人は、quick learners であろうが、覚えてしまった英語が忘れられず困った slow unlearners を多く知っている。その人のリズムは必ずといっていいほど乱れている。

 書き言葉と話し言葉がちぐはぐであるとか、実社会で学んだ英語と学校英語とがチャンポンになったものであるとか、私にはピンとわかる。不自然な英語とは、learning と unlearning のアンバランスから生まれる。

 私の経験をいえば、まず学校で学んだ big words を unlearn し、give と get のような簡単な表現を learn することにした。 (p.26-p.27)

 またちょっと面白いと思ったのは、Paul Harvey news and commentary について。ポール・ハーヴィーは保守的なラジオパーソナリティーだと聞いているが、著者は、英語のことでいえば、「ポール・ハーヴィーがわかれば有段者」だという。「5分間のFENニュースに慣れている人でも、こればかりは簡単に聴きとれない。時事英語のみならず、英語のヤマト言葉 (homey language) が入ってくるからだ」という。

 1分間の長さの話で171語ある話を紹介して、その話について著者は次のように言う。

 手に追えないスピードではないが、私のランク表(巻末参照)でいけばこのポール・ハーヴィーがエンジョイできるのは、2段以上の実力の持ち主である。なぜ難しいのかというと、まず第一に彼独特の「間」のとり方である。この「間」(呼吸法)は引用文中/(短い間)と//(長い間)で示しているが、アメリカ人聴取者には彼らの呼吸のリズムに合うので快適である。しかし日本人のリズムではないので疲れる。(p.50)

 Paul Harvey news and commentary について、著者は「最近も、試しにこの番組をトランスクライブしようとしたが、何度聴いても聴きとれない個所が多かった」と書いている。「いずれにせよ、ポール・ハーヴィーの醍醐味を知るのは、有段者になってからだと思う」としめくくっている。

 また、野球よりも相撲好きの著者は、テレビで相撲中継を見ながらFENで実況を聴くという面白い学習法を提案している。

 わたしはいずれのスポーツも見る時間がないのだけれど、「FENで野球の放送を聴いていても聴きとれない英語が多い」という著者は、野球について、「日本で使われているカタカナ英語がどうやら通じないようだ。本物の野球放送が聴きとれない理由は、それだけではない。(改行)野球特有の決まり文句が早口でしゃべられるから、ついていけないのであろう」とズバリ問題を指摘し、さらに次のように書いている。

 5回の裏ーーーこの4語は、一目でわかる。だが、Bottom of the fifth の4語を eys stop でちらりとみて、「5回の裏」だと即座にわかるだろうか。

 もし、ハテと考えるようであれば、バラㇺアヴザフィフスとい発音を耳にしても同じように「5回の裏」とぴんとこないはずだ。野球放送のシャワーを浴びているとそれが、瞬間に脳裡に浮かぶようになってくる。

 Top of the third (inning) が3回の表

 Bottom of the ninth が9回の裏

 とただちに結びつけば、英語で野球がエンジョイできることになる。(p.73)

 英語が少しわかるようになれば、スポーツも楽しめるといった単純な話ではないのだろう。興味もないスポーツで、その用語も知らず、実際に鑑賞もしていなければ、わかるはずもないというのが、実態なのであろう。著者は、「FENを聴いていて、一番いやなのがアメリカン・フットボールの実況放送である。なにしろ、韓国語を聴いているようなもので、さっぱり聴きとれない。私には雑音に近い。もっとも、じっと耳を澄ませると、単語は聴きとれるが理解はできない。それもそのはず、アメフトのルールがよくわからないのである」と書いている。なるほど。そういうことなのですね。

 他にも面白いことが書かれているが、今回はこの辺でやめておこう。

*1:ここは、著者の言いたいことからいって、「聞いているだけ」と書くべきであろう。おそらく、校正のミスであろう。真剣に聴くのがlisten で、耳に入ってくるままぼんやりと聞くのが hearだからだ。

*2:「個有名詞」は校正ミスで、「固有名詞」だろう。