「海外見聞・研修記」を書いた

 アメリカ語とどこまで行きますか
 −100WPMをめざそう、異文化コミュニケーションのために−


1.アメリカ語はとてもむずかしい


(1) そもそも外国語はむずかしい


 ○外国語はできなくてあたりまえ

 「…8ヶ月もアメリカにいってらしたんですって。滞在費はどうなさったの。へぇー、学校負担で…。さすが私学ね。それじゃ、もうペラペラでしょう、英語。」
 帰国後、もうすでに短期留学などめずらしくなくなったのか、アメリカ合州国の様子を聞かれることはなかったのですが、「もうペラペラでしょう」と何度か言われることがありました。そう聞かれるごとに、私は、「ペラペラ」って、どの程度のことを言うのかしらと考え始めました。そして、アメリカ語習得に向けた私の情熱と努力にもかかわらず、8ヵ月間の成果のあまりに貧弱なことに気づかされ、それ以来、次のように返事をすることにきめました。
 「外国語学習とは、8ヵ月くらいでマスターできるほど簡単なものではありません。考えてもみて下さい。私たちは日本語をなんとか聞いて読めるようになりました。あまり意識していなかったとはいえ、膨大な努力の結果に、です。けれども、アナウンサーのように、噺家のように話せますか。作家のように書けますか。母国語である日本語ですら、私たちは修行の身です。外国語であるアメリカ語については言うまでもありません。」
 開き直っていえば、外国語はできなくてあたりまえのものです。外国語とはそういうものなのです。
 「外国」とは何か。
 手元にあるコンサイス・オックスフォードの辞書で、「外国の(foreign)」を引いてみると、そもそもの語源はラテン語の「フォラス(foras)」であるとあります。
 「フォラス」とは何か。
 「フォラス」とは、”outside”、つまり「外」であると書いてあります。アメリカ合州国でよく用いられている他のペーパーバックの辞書を調べてみても、「フォラス」の意味として、”out of doors(「戸外の」)”や”abroad(「外の国へ」)”をあげているものがあるくらいですから、”outside”と大きな違いはないといってよいでしょう。つまり、”foreign”という言葉から理解できることは、この世界には、「内」(inside)と、「外」(outside)という概念で明確に区別できる世界があるということです。自分と同じような人間がいて、通じ合える言葉をもち、共通の文化をもっている。そういう「内」なる世界が一方で存在している。けれども、一歩「外」へ出ると、自分の言葉も文化も通じない世界がある。そういう人間がいる。つまり、自分の民族や文化・言語と明確に区別できる異民族・異文化・異言語が世界には存在するということなのでしょう。
”foreign”とは、「他の人や物に属している、したがって当然、自分とは異なる性質の」という意味なのですから、外国語はできなくてあたりまえのものなのです。


 (2)日本語からみたアメリカ語のむずかしさ


 ○アメリカ語はとっつきにくい
 外国語というものが当然むずかしいものであることは述べたとおりです。言語という言語は、どの言語もとっつきにくいものばかりです。けれども、中には比較的とっつきやすいものもあります。これは、言語の親族関係からそういえるのです*1
 言語にも、人間関係と同じように、親族関係があります。よく知られているように、イギリス語の祖先としてギリシャ語・ラテン語があげられますし、また親類としてフランス語・ドイツ語などがあげられます。ですから、たとえば、同じ外国語とはいえ、フランス人がアメリカ語にとりくむ場合と、日本人がアメリカ語にとりくむ場合とでは、明らかに違います。日本人が圧倒的に不利です。このことは外国語学習において、日本人が常に不利な立場におかれることを意味しません。これは日本人とフランス人が中国語を学習することを想像してみれば明らかでしょう。この場合、漢字学習などにおいては、明らかに日本人が有利です。
 しかし、くりかえしますが、日本語にとってアメリカ語はとっつきにくい言語のひとつです。私にとって日本語とアメリカ語は東洋と西洋のシンボルと思わせるほど、異質な衝撃を与えてくれるものなのです。


 ○かみあわない語彙・文化的背景

 サンフランシスコの英語集中講座のベネズエラのクラスメートに、日本語で認識ってどう書くのと聞かれたことがありました。彼女はベネズエラで大学の倫社の先生だったので、そうしたことに問題意識があったのでしょう。私は、自分のノートに、認識という字を何気なしに書いて教えてあげました。書きながら、自分自身ああ日本語ってむずかしいと気づかされました。いや、まてよ、この漢字は正確には中国からの外来語というべきかなどと考えていますと、私の書いている字を彼女は見ながら、これが認識か、まるで絵のようだと驚いていました。日本人はみんなこんな字が書けるのかと興奮して尋ねるので、そうだなぁ、高校生くらいになればみんな書けるかなぁと言うと、ますます驚いていました。
 彼女にかぎらず、一般に、西洋の人たちにとって、漢字は簡単には乗り越えられない異文化の高い壁だといえます。一般の日本人がアラビア文字をみるのと同じくらい分けのわからないものと感じ、フラストレーションを感じるものといえます。
 サンフランシスコのチャイナタウン。そこは漢字文化の世界であるので、チャイナタウンに行くたびに留学中の私の気分は落ち着いたものでした。けれども、その一方、チャイナタウンは、アメリカ人をはじめ西洋の人たちにとっては、自分たちとは合い入れない強烈な異文化のにおいを感じとるところなのです。
 語源として、アメリカ語と日本語とでは重なり合いません。戦後、大量のアメリカ語を外来語として導入しているとはいえ、そもそもアメリカ語と日本語とでは、血筋が違うのです。
 辞書でこのことを考えてみましょう。
 私は、ウェブスターのニューワールドというペーパーバックの辞書を留学中に愛用していました。最初に語源が載っているのが便利だったのです。英語集中講座の授業中に語源論議になると、フランス人やドイツ人、スペイン語を母国語とする南アメリカの人たちの出番となるのでした。日本人や中国人は全くといってよいほど参加できません。私は、私たち日本人は単語を海綿のように飲み込むだけですからとアメリカ人教師に自虐的に言ったものでした。
 日本語からの外来語として、ウェブスターのニューワールド辞書には、kimonoやjinrikisha、sake(saki)、judo、jujitsu、karateくらいしか見当たりません。こんなあたりまえのことが気になりだしたのは、辞書を引くたびにフランス語からの借用語とか、ドイツ語からの借用語という語源欄が気になり始めたからなのです。日本語と比べて、フランス語やドイツ語からの借用語が圧倒的に多いのです。いわば、ヨーロッパ系言語の親密な関係をみせつかられて、あてられるということになります。外国語は外国語なのだけれども、アメリカ語を勉強しているクラスメートにフランス人やドイツ人がいると、東洋と西洋という異文化を否応なく再認識させてくれることになります。
 私たちが語源として重なり合わないアメリカ語を学習することは何を意味するでしょうか。日本人の私たちがアメリカ語を学習する場合、極端にいえば、空白状態から始まるといえるのです。アメリカ語が西洋という異文化のシンボルであり、西洋という異文化への入り口であるからこそ、アメリカ語を学ぶことは、そのことを通じてフランス語やドイツ語・スペイン語、ひいてはラテン語ギリシャ語の一部分を同時に学んでいるという側面があるといえるのです。はじめての外国語としてアメリカ語を学ぶということは日本人にとって結局西洋の文化を学ぶことを意味するからこそ、その作業が一言語の問題にとどまらず、大きな作業となってくるのです。
 たとえば、アメリカ人がアメリカ合州国で日本語を学んでいるとしましょう。その際に、日本人の民族性にかかわる単語、たとえば、お盆とか、おひなさまに対して、そのアメリカ人がフラストレーションを感じるのは当然です。こうした民族性にねざす言葉は机の上で真面目に勉強しただけでは迫りえません。言葉を置きかえることはできても、文化そのものを学ぶことが困難だからです。
 日本人がアメリカ語を学ぶ際にも同じことがいえます。同じ民族であればピンとくる言葉が、異文化であるからこそ、説明されても、字句上の皮相な理解にとどまり、ピンとこないということは山ほど起こるわけです。
 先にも書いたように、戦後大量のアメリカ語が外来語として日本語に入ってきています。だから、日本語とアメリカ語は重なってきた、外来語としてアメリカ語が入ってきたからわかりやすくなっているのではないかという意見があるかもしれません。しかしながら、これは誤解だといわなければなりません。あるアメリカ語が外来語として日本語に組み込まれた以上、あくまでもそれは日本語です。たとえば、ハンカチですが、日本でハンカチは普通手をふくものです。しかしながら、アメリカでは、一般に鼻をかんだり、顔をふくものなのです。そもそも鼻をかむものという定義がありますし、アメリカ合州国を一度でも旅行した人はおわかりだと思いますが、アメリカ合州国では手をふくハンカチを持ち歩く必要性は低いのです。どこでもペーパータオルが完備されています。これは一例に過ぎませんが、同じ言葉でもアメリカ人のイメージと日本人のそれとでは違っているということは頻繁に起こります。


 ○語順の違いがアメリカ語を一層むずかしいものにしている
 日本語とアメリカ語の語順はかなり違います。英文解釈で、漢文と同様の読み下し方式を採用せざるをえないのは、この語順の違いのせいなのです。
 外国語であるから、語順だって違うのはあたりまえだと考えていました。しかし、単純にそうもいえないようです。
 加藤恭子さんの「英語のヒアリング こんなふうにやったら?」によると、一般に、一定の意味を与える語群、その置かれ方の順序をみると、フランス語とイギリス語とでは同じである傾向が強いが、日本語とフランス語・イギリス語とではまるで違うとあります。
 また、本多勝一さんの「日本語の作文技術」によれば、日本語・朝鮮語アイヌ語エスキモー語は語順がイギリス語と逆の言語(三上文法的にいえば述語中心言語)であり、日本人がイギリス語を学ぶことについて、ドイツ人やフランス人・イタリア人・スペイン人はいうに及ばず、イギリス語と全く異質の中国語やベトナム語をもつ中国人やベトナム人と比べてさえ不利だとしています*2
 語順が違うということは、単に語順の問題にとどまりません。語順は思考と深く関わっているからです。聞く力や読む力に与える影響にも大きいものがあります。これは私の直感に過ぎませんが、日本語の語順では、はじめに長いものをもってくるのではないか。それに対して、イギリス語は、頭でっかちを避けて、長いものを後にもってくる傾向にあるのではないか。こうした仮説はともかく、日本語の語順がイギリス語とは逆であるということが正しいとするならば、日本人がイギリス語・アメリカ語を語順どおりに理解するには、相当な訓練が必要だと言わなくてはなりません。


(3)日本からみたアメリカ合州国 −異文化として−


 ○当然にも私たちはアメリカ人の常識を知らない

 語彙や文法を一定程度マスターし、語順の違いを克服して、アメリカ語を一定程度駆使できるようになったとしても、自由にコミュニケートできるとは限りません。アメリカ人のもっている常識を当然私たちは知らないからです。対象とする外国についての知識や知的枠組が欠如していると、字句上文章を理解できたとしてもピンとこないことがたくさんあります。
 アメリカ合州国のシンガーソングライターにランディ・ニューマンという人がいて、彼の「セイル アウェイ」というアルバムの中に、”Burn On”という唄があります。タイトルは、燃えよ、燃え続けよといった意味になると思います。オハイオ州クリーブランドという街がある。そこにカヤホガ川という川が流れている。そのカヤホガ川に向かって、ランディ・ニューマンが、燃えよ、大いなる川、燃え続けよと呼びかけている。そんな唄なのです。表面的な意味はわかるけれど、どうもピンとこない。そもそも、何故ランディ・ニューマンがそんな唄を歌わなければならないのか理解できない。私のみたところ、ランディ・ニューマンはとても才能のある知的な歌手のひとりで、わけのわからぬ唄をつくるわけがない。そう思っていたので、ずっと気になっていたのです。
 留学中に知り合ったクリーブランド出身のアメリカ人女性は、この唄に関する私の質問に次のように答えてくれました。クリーブランドは公害の街として知られていて、このカヤホガ川も石油・重工業のせいでひどく汚染されていたところ、ある日、カヤホガ川に流れ出た石油が燃えるという事故が起こってしまったというのです。彼女は、あなたが知らないのも、唄の意味がわからないのも無理もないと言われましたが、この場合、私の理解を妨げていたものはアメリカ語の技術というよりも知識です。この事件を大部分のアメリカ人は当然のことながら常識として知っているし、大部分の日本人は当然のことながら知らないということなのです。
 イギリス語やアメリカ語がわかるといっても、その中味は単純ではありません。外国語学習はあるところまでは技術の問題ですが、それ以上は知識が決定的に重要になってきます。
 実際、知識があるとアメリカ語が軽くなります。聞き取りや読み取りがずっと楽になります。タイムやニューズウィークなどの雑誌を留学中に読まされましたが、いつも痛感させられたのは知識の欠如でした。簡単に理解できないために、サンフランシスコ・クロニクルという日刊新聞のハーブ・ケインというコラムニストの随筆には泣かされましたが、その主な理由はサンフランシスコという街に対する理解のないことでした。バスでアメリカ合州国を横断中、グランドキャニオン近くのキャメロンという小さな町でビールを買おうとすると売っていません。なぜ売っていないのかと尋ねると、インディアン居住地区だからという返事がかえってきた気がしました。「気がしました」としか理解できなかったのは、インディアン居住地区では酒を一切売ってはならないという法律があることをそれまで知らなかったからです。知識があれば、楽に聞き取れたはずです。あるところまでは技術、それ以上は知識が決定的に重要になってきます。


 ○発想がかなり違う

 “Yes-No problem”という言葉があります。日本人はYes, Noも知らない、日本人の受け答えは混乱していると日本人を皮肉った友人の言葉でした。こうした表現が市民権を得ているかどうかは知りませんが、この言葉は、まず、アメリカ語の論理からすると、私たちがYes, Noと物事をわりきることが下手であり、ときに混乱することを示しています。
 サンフランシスコで世話になったアメリカ人に下駄をあげようとしたことがありました。相手がその下駄をはこうがはくまいがかまわない。日本らしいものをと思ってもってきたものです。サンフランシスコでは下駄ぐらいすぐ手に入るのですが、私としては下駄ではなく私の感謝の気持ちを受け取ってもらいたかったのです。彼が下駄など友達にあげたってかまわなかったのですが、彼の返事は一言Noでした。その理由は、どこではくのですかと逆に質問され、もらっても利用できないからということでした。彼の論理はカラッとしていてスッキリしていますが、Yesを期待した私の論理とはかみ合いませんでした。Noと言われてもカッとこないこと、冷静にNoと言えること。このふたつは、アメリカ語を学ぶ者にとっての常識ですが、相手の立場をできる限り考え、まわりを極力刺激したくないと発想する傾向の強い日本人の気質にはかみ合わないことが多いのです。
 「肉はお好きではありませんね」と聞かれたら、どのように答えますか。相手は私に気をつかい、肉を好きではないと思っているらしい。よくわかったな。その通り。肉は好きではないと思考をすすめて、「はい、好きではありません」と答えるかもしれません。あるいは、「いいえ、(実は)好きです」と答えるかもしれませんね。これは日本人の、そして日本語の論理で、イギリス語では、Yes、Noの使い方は違います。
 「肉はお好きではありませんね」という質問に対してアメリカ人はどのように答えるか。肉のことが話題か。肉は好きだと思考をすすめて、「はい、好きです」と答えるか、「いいえ、好きではありません」と答えることでしょう。
 肯定の疑問文は問題ありませんが、否定の疑問文で尋ねられた場合のYes-Noが、日本語とイギリス語・アメリカ語とでは、ちょうど逆になります。これが日本人の”Yes-No problem”の原因なのです。これは、相手を中心に考えようとする日本語の論理と自分を中心に考えるアメリカ語の論理という考え方の差から生じるのです。Yes, Noという簡単な言葉のうらに、発想の違いがひそんでいるわけです。
 アメリカ語を喋りたいと思っている日本人には、とにかく”I(私)”と始めなさい。日本語を話したいと思っているアメリカ人にはともかく”I(私)”を捨てなさいと、「英会話上達法」の中で倉谷直臣さんは忠告しています。コミュニケーションのやり方として、日本は腹芸が主であり、アメリカ合州国ディベートであるといわれます。まず、結論をカラッと述べて、証明するアメリカ人の発想と、まず状況説明から始めて、結論をあとまわしにする日本人の発想の違いです。
 発想の違いは、リズム感の違いや気質の違いにつながります。アメリカ語の技術や知識は真面目な努力によってある程度まで獲得できますが、発想・リズム・気質の違いはやっかいなものだと私は考えています。


 ○日本人がアメリカ語をマスターするということはどういうことか

 できなくてあたりまえの外国語のうち、日本語から遠いアメリカ語を学習する。合州国についての知識もない。発想も違う。大きな海に投げ込まれた一本の針のような気持ちになってくる。まず、違うということから始めるしかありません。日本語とアメリカ語とでは発想が違う。私の友人の言っていた”Yes-No problem”も、日本人の問題も、日本人だけの問題ではなく、アメリカ人の問題でもあるのです。どちらが論理的かというのは、不毛な議論です。日本語の論理もアメリカ語の論理もいずれも論理的であり、ただ発想が違うのです。「私」というアメリカ的なアイデンティティもあるからよい、またないからダメということではなく違うということなのです。腹芸とディベートも同様です。
 アメリカ語の世界に入るということは相手の土俵に入ることですから、苦痛をともないます。日本的「和」の論理を捨て、自分は他人と区別される存在とはっきり割り切り、常に自己主張しなければなりません。一時期プラグマチックになることも、アメリカ語の論理に影響されるため十分ありえますし、アメリカ語により、思考や発想が逆に影響されるのではないかと悩み不安に陥ることもあります。アメリカ語をマスターするということの中に、気質の転換が入ってくるわけです。これが一番むずかしいことかもしれません。人間の気質がそんなに簡単に変わるはずもないからです。もっとも、日本人のアイデンティティや個人の気質をかなぐり捨てて変身する必要もないわけですが。


2.何故アメリカ語をやるのか、そしてアメリカ語とどこまで行くのか


 (1)何故アメリカ語をやるのか


 〇何故外国語をやるのか

 異文化コミュニケーションは母国語ではできません。異文化コミュニケーションには外国語が必要です。母国語と違って外国語はできなくてあたりまえのものです。生死にもかかわりません。しかし、ある外国語をマスターしていれば、それはより豊かな生を享受できることになります。外国語は窓口のようなもので、母国語だけでは見えなかったものが見えるようになり、発想もそれだけ豊かになります。
 外国語はできなくてあたりまえのものですが、人間の歴史は、言語の違いを克服して、コミュニケートしあう能力を発展させてきた歴史でもあるのです。異文化・異民族をつなぐコミュニケーションというものが存在し発展してきたというのは歴史的な事実です。わが国の鎖国のような閉鎖的で排外的な態度は今日もはや時代遅れですし、戦前の侵略戦争のように他国民を併合・隷属させ、その言語を消滅させようとした大国主義的態度も二度と繰り返してはなりません。人類の発展のための豊かなコミュニケーションが求められるわけです。とりわけ、核兵器の出現によって人類絶滅という悪夢を不幸にして共通にもつ現代世界に生きる私たちは、他国のことに無関心ではいられなくなりました。互いの立場を尊重し、かつ、距離を保ちながら、批判的な態度で影響しあうという異文化コミュニケーションの役割は、真の国際連帯がますます求められている今日、重大であると言わなくてはなりません。
 
 ○何故アメリカ語をやるのか

 数ある外国語の中で、日本においては、何故アメリカ語が外国語の対象として主流をしめるのか。これ自体が考えなければならない問題です。歴史的にみれば、外国語教育が実に政治と密接にかかわっていることがわかります。たとえば、遣唐使の時代、つまり奈良時代から平安時代にかけては、エリートにとって中国語がいわば必須科目でありました。戦前・戦後のアメリカ語の扱いにしても、戦前は敵性語、戦後は盲目的ともいえるアメリカ語ブームと、その扱い方がいかに政治的力関係とかかわっているか示す好例です。世界共通語といえば、すぐにイギリス語・アメリカ語が浮かぶという公式は、それを認めるか認めないかは別にして、イギリスの、そして近年ではアメリカ合州国の全世界への政治的制覇という歴史的事実をしめしているといえます。真の国際化と植民地化を混同してはなりませんし、外国語教育は他の外国語もどんどん取り入れるべきだと思いますが、このことはひとつの外国語教育のかたちであるイギリス語・アメリカ語教育を排除するものでもありません。


 ○何故アメリカ語 ―私たち一人ひとりの中で―

 アメリカ語をやるのがあたりまえであるという風潮が強いようです。何故と聞くと、受験に必要だから、アメリカ人と話してみたいから、これからの国際社会に必要だから、なんとなくという答えが返ってきます。最初はどんな動機でもいいのです。動機そのものもしっかりしていくものです。けれども、これだけではやはりしっかりしたものとはいえません。外国語学習はフラストレーションの連続です。留学中に私はよく次のように言ったものでした。「もし俺がアメリカ語を喋れなくても、それはあたりまえのことだよね。もし俺がアメリカ語を駆使できれば、それはよりよいことだけれど、またあたりまえのことだよね。つまり、変なアメリカ語を喋っている道の途中にいる者が一番苦しいし、おかしなことなんだよね」と。このフラストレーションに打ち克つ高い目的意識を私たち一人ひとりの中で育てていく必要がある。そしてアメリカ語の力をつける。するとアメリカ語を学ぶ目的意識もまた高くなる。そうした関係をつくることが大切ではないかと強く感じています。
 

(2) アメリカ語とどこまで行くのか


 ○異文化コミュニケーションに役立つ到達点を考える

 外国語ができるという表現はよく聞きますが、外国語ができるということはどういうことでしょうか。
 外国語ができるといっても、どの程度できることをイメージしているのかによって違うわけですし、何の目的でアメリカ語をやるのかによって当然到達目標は違ってきます。ここでは、異文化コミュニケーションに役立つ到達点を考えてみようと思いますが、ざっと三つに分けて考えてみたいと思います。
 第一にもしバイリンガルをめざすならば、死ぬまで勉強しなければなりません。アメリカ語のむずかしさは述べてきたとおりです。バイリンガルになる人は努力の天才なのです。できないのがあたりまえの外国語をあたりまえのようにできるようにするには非凡な努力をつみ重ねる以外に道はありません。しかし、これは誰もがとるべき道ではありません。
 第二に、自由にアメリカ語を駆使できることを目標にするとどうなるでしょうか。駆使するとは、ひととおりイギリス人やアメリカ人の話が聞けて、新聞・雑誌を読むことができて、ひととおり話せて、書けるということでしょう。よく知られているように、聞けて読めなければ、話すことも書くこともできません。表出(アウトプット)は受容(インプット)がなければできないわけです。そこで、まず聞くことについて考えてみます。
 聞く力は、アメリカ語をアメリカ語として理解できる力を意味します。アメリカ人の大人の話す標準スピードが170〜200WPM(words per minute 1分間の語数)であるとすれば、これがほぼ理解できる(60〜70%)ということは、理解度60〜70%をたもちながら、200WPMで読めることを意味します。この段階では、聞くことと読むことが有機的につながっているので、そういえるわけです。200WPMで語順どおりに聞けて読めれば、話すこともできるようになり、書くこともできるようになるという構造になると思います。たとえ、自由に駆使できたとしても、合州国で育った人からみれば、インプットでは理解度は落ちるし、アウトプットも不自然にうつります。技術面では申し分ないけれども、発音上の訛りは残るだろうし、絶対的な知識不足と発想や論理のつながりに不自然さが残っているからです。
 この200WPMというのは簡単な目標ではありません。アメリカ人が話すスピードとして、130や150、160WPMといったスピードで話すことも少なくありませんから、200WPMで読めるということは音読のスピードを超えることになります。これは日本人学習者がぶつかる非常に高い壁です。
 自由に駆使することを目標にするならば、どうしても200WPMに到達する必要があります。日本人学習者では、真面目に取り組んだ人で大学を卒業してからようやく到達するといわれている目標です。これは私の直感ですが、アメリカ人なら中学3年から高校1年といったレベルだと思います。したがって、200WPMは日本の高校生の目標にはできません。200WPMは、本格的な異文化コミュニケーションのための登竜門であります。
 第三に、日本の高校生のめざすべき目標を考えてみたいと思います。
 聞く・読む・話す・書くは、総合的なものですが、外国語を学ぶ場合は、悲しいことに最初からつながっているわけではありません。母国語話者の場合の大量に聞く作業とそれにつれて話す訓練がまるでできていないからです。外国語学習において、いつ頃から聞く・読む・話す・書くがつながってくるかというと、100〜150WPMでやっとつながってくるようです。ゆっくりとした音読や朗読のスピードが、100〜150WPMです。自由に駆使できるという段階ではありませんが、日本語を媒介せずにアメリカ語を理解するスタートラインに立ったことを意味します。その点で、100〜150WPMは基礎固めの終了、そして自立を約束してくれる段階といえます。
 ところで、100〜150WPMの読書スピードは日本の高校生にとって実現可能な数値でしょうか。現状では否といわねばなりません。京都大学の安藤教授の大学新入生を対象にした調査によれば、全員ほとんど例外なしに100WPM以下、理解度も平均して60%以下であるそうです。これは能力の問題というよりも、まずは日本の言語環境、そして聞くことを軽視している日本の外国語教育が原因と思われますが、現在では、150WPMは真面目に取り組んだ大学4年生あるいは大卒者の力であるといわれています。しかし、私の直感では、このレベルはアメリカ人の小学校4年・5年生といったところのように思います。現在の日本の高校3年生はアメリカ合州国の小学1年生の読み物でちょうどいいくらいかもしれません。もちろんこれらは単純に比較もできませんし、比較そのものもあまり意味がありませんが、技術面からだけいうと、たとえば語彙数などからは、そうしたことが言えるのかもしれません。
 異文化コミュニケーションとしてのアメリカ語教育をめざすならば、100〜150WPMは最低必要条件であり、それまでの下積みの作業もようやく意味をもってきます。ここまで一気に集中してとりくむことがとても大事なことです。集中したインプットがこの数字を可能にします。日本の高校生であろうと同じです。


 ○インプットの力とアウトプットの力

 日本のことを知ったり、日本について話をするのに日本人どおしであればアメリカ語はいりません。けれども、アメリカ合州国のことやイギリスのこと、東南アジアや第三世界をはじめとする外国のことを知るにはアメリカ語を知っていると便利です。私は、いろいろあるアメリカ語の力の中で、この外国を知る力、つまり、外国の新聞・雑誌が読める、ニュースや映画がわかるインプットの力が大事だと思っています。そのためには、外国のことを知りたいという意欲と問題意識がなくてはなりません。外国のことなどどうでもいい、何が起ころうと知っちゃいないということでは困ります。
 インプットができればアウトプットはできるようになります。けれども、悲しいかな、所詮外国語です。アクセントの違いや発音の差はできるでしょう。流暢でないかもしれません。けれども、かまいません。もちろん、上手なことにこしたことはない。しかし、リチャーズやギブソンの提唱するベーシック・イングリッシュや小田実さんいうところのイングラントで十分です。完璧な日本語を話すが内容のない外国人と多少発音は変だが内容のある話のできる外国人とどちらを友人にあなたは選びますか。この例は極端ですが、内容が大事なのです。外国人はあなたの発音に興味はありません。内容がなければ相手にされないでしょう。内容のない日常会話というものだけを練習している人がいますが、外国旅行ではカネが実際にモノを言うのです。アメリカ語でも、Money talks.といいます。ですから、外国人とコミュニケートすべき内容をもっていることがとても大事になってきます。外国に対して日本のことを伝えたい、知ってもらいたいという意欲と問題意識がまず決定的に重要で、技術はついてくるものです。意欲と問題意識がなければ、下手でおかしなアメリカ語を人前で披露する気にもならないでしょう。もっとも悲しむべきことは、表現したい内容のない人です。これは技術的にどうこうできるものではなく、人間の問題であるからです。


3.アメリカ語教育こうしたらどうか


(1) 異文化ライブラリーの設置を

 アメリカ語をマスターするには大量に聞き大量に読むことを重視しなければなりません。ビデオディスク・ビデオカセットなどの映像のあるものや各種レコードやカセットを資料として是非そろえたいものです。思考活動や認識活動に役立つ、言語の技術面と同時に知識を学べる教材にして、アメリカ合州国やイギリスだけでなく、東南アジアや第三世界の国々を学習できるようにします。
 また読む活動のため、アメリカ合州国や東南アジアをはじめとする諸外国の定期刊行物や雑誌・新聞はできる限りそろえたいところです。
 ところで、これらはイギリス語・アメリカ語でなくてもよいと思います。大切なことは生徒の意欲と問題意識を育てる知的で刺激的な材料をいつでも生徒が利用できるようにするということです。
 

 (2)聞きとり・読みとりに力をいれた授業を

 日本の子どもは生理的な障害がない限り、日本語を駆使できるようになります。けれども、これとて最初からできているわけではなく、長い時間をかけて学習をしてきているということがわかります。いわば、日本語を獲得して日本人になるわけです。母国語の場合、5、6歳から文字を習い始めますが、そのときすでに話し言葉が完成していると言われています。聞けなければ話せない、読めなければ書けない、すなわちインプットが充分でなければアウトプットはできないという事実と、話し言葉から書き言葉へ移行するのが正しいあり方であることが、幼児がどのように言葉を獲得していくのかをみていると理解できます。
 日本語を駆使できる言語能力があれば、外国語だからといって恐れることはありません。聞くことがすべての基本であるわけですから、聞く絶対量を増やせばいいのです。読む量もできるだけ量多く読むことです。このときに覚えようとしなくてもかまいません。忘れてもよいのです。たえだ、多くを忘れるために、多くを聞き、読まなくてはなりません。よく10年間も外国語をやったけど、どうもモノにならないという人がいます。どこまでやってもという気持ちは外国語学習につきものですが、もし全く自信がないというのであれば、インプットの欠如が原因だと思います。問題は、10年間の絶対量と集中度です。勉強したと意識している時間数は、無意識に学習している母国語の場合と比べると、案外少ないものなのです。


 (3)教員の研修制度の充実を

 母国語の場合、子どもにとってすぐれた“教師”はたくさんいます。まず、父母がそうですし、近所の大人もいます。小さい仲間もいます。学校に行けば、本格的に教師から教わり、友達も増えます。中学に上がれば好きな作家だってできるでしょうし、もしかすると、本をとおして好きな学者とめぐり合うこともあるかもしれません。
 外国語の場合はどうでしょう。
 母国語の先生たちに比べると、淋しい気がしますが、それはあたりまえのことです。まず専門家としての教師が力量をつけることが求められます。海外研修などの条件整備が求められています。
 海外研修もアメリカ合州国やイギリスに限らず、東南アジアやインド、第三世界と広い見地に立って考えることが必要ではないでしょうか。交換留学生や教師の交流も同様に考えてほしいものです。



【参考文献】

*1:"Longman Dictionary of Language Teaching & Applied Linguistics"の中の"language distance"を参照のこと。

*2:"Longman Dictionary of Language Teaching & Applied Linguistics"の中の"typology"を参照のこと。英語をSVO languages、日本語をSOV languagesと類型化している。