それにしても、多くはないか、日本に来る場合、英語を教えるというパターンが。生まれながらにして英語を母語にしている人はきっと幸運なのだろう。甘い日本人に英語を教えて多少の金になるのだ。言語を教える資格がどれほどあるかわからないのに、英語を話すというだけで、金を出したり、まるで映画俳優のように扱われるっていうのは、とどのつまり私たちに「外人コンプレックス」があるからだろう。それにしても、あまりにもこれは不公平な話ではないだろうか*1。
エイブルタズマンで知り合ったカップルはいい人達だったけど、日本の地方で英語を教えていたとき、学生たちは、まるで自分たちを映画スターのように扱ってくれて驚いたと言っていた。自分たちは普通の人なのに、夫なんか、ブラッドピット扱いだった、と*2。こういうことだから私なんか、いつの日からか、英語を教えるという職業に若干の羞恥心を覚えるようになった次第である。こちらに来て自己紹介をするときに、英語だけでなしに、私は社会と英語を教えているのだということに何となくしてしまっている。実際は英語の教師だから、これは正確ではない。ただ、ある大学の社会学部で三年間英語を教えた経験もあって、そのときは、社会的な背景を重視してプログラムを組んだ。まぁ、これは悪気のない嘘である。私が社会学的な背景を重視しているといったって、結局は英語という科目を教えていることに変わりはない。
日本では、英語教師というと、なんかエライような雰囲気もあるが、これはかなりの勘違いで、バランス感覚が悪いように思えて仕方がない。オークランドのアイリッシュパブで、アンというアイリッシュのバーマンと知り合いになったが、「オセアニアでTESOLを学ぶ予定なのだが、英語を教える指導法を学ぶなんて実は退屈だと思っているんだ」と言ったら、「すごくわかるわぁ!」と言われてしまった。英語を母語としている連中からすれば、そんなものではないだろうか。英語帝国主義というコトバはさすがに専門家しか使わないだろうが、連中からすれば、英語を教える仕事なんて、英語中心主義のお先棒担ぎに過ぎないだろう。下手をすれば、悪い意味で、侵略行為に先立つ宣教師と同じような英語世界の宣伝マンや先兵になってしまう。無自覚にそうした役割を負っているのであれば、なおさらだ。英語以外の何かを持たず、ただただ英語を教えていますなんて、誇りを持っては言えないというのが私の率直な気持ちなのである。現在の英語中心世界の体制に乗っかるだけで、ただ英語を教えていますなんて言えば、連中にも馬鹿にされるような気がして仕方がないのだ。そこで、何となく、社会と英語を教えていますなんて、私なりの言い訳を言うようになってしまっている。他愛もない嘘だが、私の羞恥心の発露なのだと思う。