語学学校を訪れる

 一昨日、語学学校で働く幸子さんを訪ねた。すでに書いたように、彼女とのメールのやりとりがなければ、おそらく私はワイカト大学には来ていなかっただろう。ニュージーランド大使館でのビザ発行のやりとりと、ワイカト大学の事務の遅さについて、私には書くことが山ほどあるが、きりがないので今はやめておく。
 4月から3月という一年間の、いわゆるサバティカルをいただいて、あれこれ迷った末にワイカト大学(The University of Waikato)に来ているわけだが、私は3年間ほど大学で教えたこともあるけれど、基本的に私は高校教員である。いまどき、高校教員で一年間の離職期間をいただいて、海外で勉強できるというのは、非常に恵まれた職場で働いていると言わなければならない。
 実は、もっと若いときにも、職場からの援助で、アメリカ合州国カリフォルニア州バークレーで語学研修を受けたことがあって、半年間、一人でマンションの一室を借りてサンフランシスコに住んでいたことがある。残りの3ヶ月で、グレイハウンドバスを使ってアメリカ合州国全土を旅した。
 この他の海外体験としては、1987年に、オーストラリアのブリズベンやゴールドコーストにある高校を訪問したり、1993年には、メルボルンの、ある学校とニュージーランドのオレワにある学校を訪問したことがある。これらは仕事の一部というべきもので、10日間ほどの短期の旅行だった。1992年の夏休みに、当時の流行であった電子メールを通じて交流のあった海外の友人たち、その多くは学校の教員だったが、彼らに会いにアメリカ合州国西部を自動車でまわったことがある。1999年には家族でアイルランドを車で旅行し、その後、娘とハワイ島、息子とオーストラリアのタスマニアと、それぞれ車でまわった。以上は、全て私費による旅行で、それぞれ二週間くらいの旅だった。
こうした旅行体験はあるので、旅行には不便を感じない。ロンリープラネットガイド(Lonely Planet Guidebook)を読み込んで、アクティビティを決め、訪れる場所を決め、旅行会社に格安チケットを取ってもらって、レンタカーで好き勝手に町から町へと移動するわけである。
 けれども、今回の滞在は、大学という相手がいる。私だけ好き勝手にいろいろと決めることができない。それに学生ビザが取れるのかどうか、ビザの問題がある。3ヶ月ならオセアニアは訪問者ビザで全く問題がないし、延長もそれほどむずかしくないと聞いている。ただビザは真面目に手続きを踏むと、結構大変なのだ。特に私の場合、4月から3月にかけての1年間という限られた期間なので、オセアニアは、大体2月から11月末までが学校の期間であり、オセアニアのいずれかの大学院に4月からなんとか潜り込もうとしていた私が無謀であって、それまでのあれやこれやの私の努力は、結果的に全くの徒労に終わってしまっていた。
 だから、幸子さんのアドバイスがなければ、私はブリズベンにある大学に行っていただろう。その大学が悪いという意味ではない。私の要望に合った大学かどうかということである。そのプログラムは、いわゆる応用言語学のプログラムで、いわば英語をいかに上手に教えるかというプログラムであった。こうした応用言語学のプログラムに、私は物足りなさを感じていた。英語をいかに教えるかということに役立ったとしても、日本人がなぜ英語をやらないといけないのかという、私の根本的問題関心に答えてくれそうに思えなかったからである。
 さて、幸子さんは、実はワイカト大学(The University of Waikato)の職員ではなく、語学学校の職員であり、私の入学に関して責任をもつ担当者ではないのだから、私としては、幸子さんには礼儀を尽くさないといけないと思っていた。
 その幸子さんだが、彼女はハミルトンに来て、9年になるという。語学研修に来ている日本人や中国人の世話役(student adviser)が彼女の日常的な仕事だ。
 仕事は、保護者と生徒の世話で、大変らしい。彼女は大学を卒業してから、東京の都立高校で英語教師をしていたが、いわゆる「底辺校」という奴だったらしく、その教師生活は英語教育とは無縁の生活で、スカートの丈を計ったり、管理指導で大変だったという。それで仕事を辞めてロンドンに勉強しに行くことにしたという。「今は休職制度があるらしいけれど」と彼女は言っていたが、「当時は仕事を辞めるしかなかった」と、幸子さんは言った。