学習者中心という教育思想を支える教育条件・教育環境

 24年前にサンフランシスコのUCバークレーアメリカ英語の集中講座を受けたことは前に少し触れた。そのとき、各講師が、授業の感想として、受講生に授業評価をアンケートでしていたことがとても新鮮だったことを覚えている。
 例えば、「この講師は授業で教えるべきテーマについてよく知っていると思いますか」とか、「授業に対して、この講師は毎回よく準備をしていると思いますか」というようなアンケートで、生徒が、ABCDと評価ができるようになっているのだ。あまりに新鮮だったので、日本に帰って私も数年間生徒にやってみたことがある。他の高校の先生方に、稚拙な自分の教育実践のレポート発表をした際に、そのことに触れたら、「余程自分の授業に自信がないと、そんなことはできない」と優秀な教育実践家に、そう言われて、逆に驚いた経験がある。それほど、日本では、思想的に「生徒中心」ではなく、「教師中心」になっていたのだろう。
 日本の教育は、戦前の「訓導」ではないけれど、上から下への「教え込み」が少なくない。民主的な教育を意識的にすすめようとしなければ、とくに中学・高校教育時には、受験指導が主流になりがちだ。
 実は「教育」と訳されているイギリス語のエデュケーション(education)のeducateという動詞には、「生徒の持っているものを引き出す」というニュアンスがある。スタディ(study)という動詞だってそうで、studyはもともと「観察する」「研究する」というニュアンスのあるコトバだ。だから「丸暗記」とか「ガリ勉」とは全く無関係のコトバなのだ。
 日本の塾のことを日本特有の現象のせいか、そのままjukuといったり、cram schoolといったりするけれど、この「詰め込み」(cramming)と、教育(education)とは似て非なるものなのである。
 このマオリ語のチュートリアルだって、学習者主体だから、点数を知りたいものに、権利として教えているのだろう。フレディがそう自覚しているかどうか別にして、こうしたことがニュージーランドでは当たり前であるに違いない。
 わたしの職場は大学附属校なのだが、オーラルコミュニケーションを初めて導入した際に、評価がいい加減になって主観的になっては、大学推薦に直結するから、不公平にならないかという議論があった。ペーパーテストで点数をつける方が少なくとも客観的だという議論もあった。
 ただ、教育評価は生徒の学習活動を励ますものでなければならない。単に評価点をつければよいというものではない。生徒の学習活動として、どういうものを伸ばすべきか考えさせないといけないし、そのためにも、どのような評価が適切なのか、考えるべきなのだ。