コミュニカティブアプローチの目的と導入するための条件

 マオリ語による口頭発表を生徒の立場でやってみて、コミュニカティブアプローチがよいと私が思う点は、「自分でも外国語が話せる(のではないか)という自信がつく」「外国語を使える喜びを味わえる」「達成感がある」ということだろう。確かにこれはいいことに違いない。
 ただしコミュニカティブアプローチをすすめるためには、「学習者に動機づけがないとダメ」だし、とりわけ「個人に対するケアが可能な条件、とくにクラス規模が小さくなければならない」。そのためには選択性であれば、もっと効果的だろうと思われる。
 けれども、おそらくコミュニカティブアプローチの不十分なところは、「正確な理解に学生が到達しないことがあること」「教師の適切なフォローがないと、不正確なものを覚えてしまう」ということだろう。私なんか、最後の締めのコトバなんか、ジュピターとデビッドに教えてもらっただけの付け焼刃だったから、意味もよくわかっていないほどで、ただただ丸暗記しただけだった。
 ところで、昨日の、応用言語学の特別セミナーで、イギリス語教育についての中国人女性の自分の大学院の卒論の発表があった。中国の学校と、ハミルトンにある語学学校の二つをデータとして、外国語指導がどうあるべきか分析していた。
 その彼女によれば、中国の外国語教授法は、一般的にいって、「教師中心」「教科書中心」「教室授業中心」だと言っていた。この点では、日本もあまり変わらない。
 「生徒中心」で、「教室授業」以外でもフィールドワークをさせるのに抵抗のないコミュニカティブアプローチが盛んなニュージーランドでは、こうした教育思想をおそらく理解できないに違いない。何故理解できないかというと、外国語教育の目的が違うこと、選択性でないこと、そして言語環境やクラス人数などの教育条件が理解できていないからだ。
 私の勤める職場でも、オーラルコミュニケーションの導入によって、外国人講師との協同指導で、コミュニカティブアプローチによる指導が導入され、マオリ語で私がやった発表と同じかたちで、すでに10年ほど前からやっている。だから、私自身、こうしたアプローチに抵抗がないのだが、受験指導一辺倒の高校で一斉講義しかやっていなかったら、私もかなりのカルチャーショックを受けたに違いない。
 こちらで、コミュニカティブといえば、コトバを身につけるための講座という印象があるけれど、日本の外国語教育とでは、そもそもその目的が違う。だから、日本の高校での外国語指導の指導論としては、コミュニカティブアプローチとともに、アカデミックな文法指導(「言語」指導)と読解指導を平行して導入した方がよいというのが、漠然とした今の私の結論である。指導論としては以上だが、外国語指導といっても、語学学校ではなく学校教育としておこなっているから、教材は、教師が選びに選んだ内容でないといけない。教材論が重要だと私が考えるゆえんである。また、「言語活動」自体が不足している日本の言語環境では、テレビ番組や映画、たまには歌なども、「言語活動」指導をおこなうために、導入すべきというのが私の基本的立場だ。
 文法講義一辺倒だと、話せるようには絶対にならない。日本にいる限り、あまり話す必要性もないから、自分が話せるようになるなんて絶対ないという信念が固定化してしまう。コミュニカティブアプローチを使うと、多少は話せるようになる。ただし、日本の高校で、全部コミュニカティブで会話中心というのは、カリキュラム上むずかしい。では中途半端なコミュニカティブの指導なんていらないかといえば、私の意見では、多少であってもこうしたコミュニカティブな経験自体が大切なのだと思っている。そうした発想をもとにして、リーディングやライティングで、もっとコミュニカティブな指導を工夫して導入すべきだろう。
 それにしても、学習者中心という教育思想を貫くためには、クラス人数をまず適正な人数にしないといけない。日本では、あれやこれやよりも、教育・学習条件の整備が何よりも重要だと私が考えるゆえんである。