コトバを教えるには順序があるし、結局は繰り返しが大切

 コトバを教える際に、順序というものがある。
 例えば、日本語のむずかしい点のひとつに名詞の数え方がある。
 馬は一頭、二頭と数えるし、蛙なんかは、一匹、二匹だ。本は一冊、二冊で、卵は、一個、二個。母語話者である日本人にとっては、すでに慣れてしまった表現であるが、外国人にとって、こいつはやっかいだ。
 まず外国人なら、ひとつ、ふたつができれば上出来だろう。馬を一頭、二頭と数えるのは、中級からでいい。つまり、ひとつ、ふたつというコトバもできない奴に、一頭、二頭を教えることは愚の骨頂で、まさに「猫に小判」である。
 マオリ語で何度も強調されたある文法事項があるのだが、最初、私にとってはこれが「猫に小判」状態であった。他のマオリの学生にとっては、ちょうど学ばないといけない段階だったようで、適当な学習内容であったようだから、全ての学習者にあてはまるわけではないだろう。だから理想的にいうなら、教える者は、学習者の何が既習事項なのか、知っていないといけないということだ。それで、繰り返しになるけれど、この知識が私には「猫に小判」状態だった。時間の無駄とまでは言わないけれど、「ひとつ」「ふたつ」もできない奴に、「一頭」「二頭」を教えるなんて、順番を間違えているとしか言いようがない。
 また、教師は、教え方が上手であることがもちろん必要不可欠だが、コトバを教える教師は、教師の名調子だけに終わってもいけない。最後は、学習者が学び、自信をもって、そのコトバをマスターできることが大切なのだ。
 だから、試験や評価も重要である。
 機械的なドリル学習の多くは下らないことが多いけど、教えっぱなしというのもいけない。学習者にまとめの学習を仕向けるように、評価などのしかけをつくることが大切だ。
 その際、学習者のちょいとむずかしい領域をねらって出題するといい。最近接発達領域とでもいうのだろうか、むずかしすぎる課題は、学習者にとって「猫に小判」状態になってしまうし、また学習者を絶望の淵に陥れることにもなりかねない。その一方、コトバの学習は継続的なものだから、学習者にこれで完璧と思わせてもいけない。
 ということで、少しむずかしめくらいが狙い目なのである。