フェザーストンは、ウエリントンから70キロほど離れたところにある、ほんの小さな町である。
ところで、トラックに住んでいるジェフは、彼が住んでいる大型トラックの中に、普通の乗用車が収容できるようになっている。ジェフと私は、現在両方ともパエカカリキを仮の宿としているので、パエカカリキからフェザーストンに彼の車で向かった。
途中、ガソリンスタンドでジェフがガソリンを入れたので、私が受付に行って、30ドルほどのガソリン代を支払った。そんなことをする必要はないのにとジェフは言ったが、こういうことはタイミングが重要だ。
途中、乗用車がとまっていて、女性二人が悪戦苦闘している様子だったので、ジェフは車をとめて様子を見に行った。どうやらブレーキを踏みすぎて、ブレーキシューが音を立てていたらしい。こうした場合は、車を後進させると直るとジェフが言う。その女性二人がジェフにお礼を言って私たちは挨拶をして別れた。
フェザーストンのその捕虜収容所跡地*1に着いてみると、第一次大戦の時の跡地と記載されている碑が見えたので、私が「ジェフ、これは第一次世界大戦だよ」と言うと、「おかしいな、たしか第二次世界大戦のはずだったのだが」とジェフが言って、多少あせっている。
車をとめて、別々に公園内の周囲を散策してみると、日本語で「鎮魂」と書いてある碑と、その向こうに、「夏草やつはものどもが夢の跡」という有名な芭蕉の碑が建っているのを私が見つけた。
さらに、そこに設置されているひとつのベンチの説明書きを見つけた私は、ジェフを手招きして呼んで、「やはり、これは第二次世界大戦だね」と確認した。
その日本大使館から寄贈されたベンチの説明書きには、58名の日本人(servicemen)の死亡が記載されている。
さらに案内板を見つけたのだが、この案内板の説明は、道路側ではなく、公園側に立っているのだけれど、その肝心の内容が、木の茂みに隠れて見えにくくなっている。
第一次世界大戦中の1916年*2より8500人も収容できる71エーカー以上もある巨大な軍用キャンプ地として使用された*3のが、そもそもの発端らしい。
第一次世界大戦中につくられたというこうした経緯の後半に、「このキャンプは、1942年の9月に、803名の日本人戦争捕虜を収容するために、再利用された。これらの捕虜たちは、家具をつくり、ジュート繊維工場を操作し、豚飼育場や農場で働いた。1943年2月25日に、48名の日本人捕虜と一人の護衛兵が、ある一つの騒動で死んだ」(“The camp was revived in September 1942 to hold 803 Japanese prisoners of war. They made furniture, operated a jute mill, worked in a piggery, and on farms. On 25 February 1943 48 prisoners and one guard were killed in a riot.”)との記載があるのだが、どのような反乱やどれくらいの規模の騒動だったのかについては書かれていない。
詳細がわからないので、ジェフがつくった軽食と冷たい水を飲んで、ジェフと私は、インフォメーションセンターに戻ることにした。