マオリ語委員会の仕事

 英語でいうと、Language Commissionにあたるタウラフィリ・テ・レオ(Taurawhiri te reo)という組織がある。日本語なら、「マオリ語委員会」というようなところだろうか。
 園長の話では、マオリ語は、部族ごとにコトバが違うが、コミュニケーション的に問題はないという。日本語でいえば、ちょっとした方言のようなものだ。
 それで、このマオリ語委員会が、新しいコトバを増やしたり、統一を図ろうとして、あれこれ検討しているのだが、その結果として、できつつあるコトバが、彼女にはわからなくなってきているという。
 そこで、この園長は、マオリ語委員会に、何を考えて仕事をしているのか、批判することが少なくないという。
 言語は統一を図ろうとすると無理がある。コトバは、結局、土着的な性格がついてまわるのである。
 日本語だって、東京方言が「標準語」のような位置を獲得しているが、日本語という抽象的な言い方は実態を指していない。コトバの実態というものは、方言のような土着的なコトバの中にこそ実態があるからだ。またそうした土着的なコトバこそ、生活に密着した、文化的なコトバが存在しているものだ。
 上からの「標準語化」や「統一化」は、こうした土着的なコトバを蹴散らしてしまう。
 トラガベイのコハンガレオの園長は、品格もユーモアも知性もある、人格者だった。それでいて、大袈裟なところが全くない。いわば普通の人だった。その彼女の、自分のコトバと若い世代のコトバが違ってしまってきている悲しみを、私たち平均的日本人は果たして理解できるのだろうか。
 さて、私は彼女の家に案内されて、お茶をご馳走になることになった。
 旦那さんを紹介されて、一緒にお茶を楽しんだ。彼女の家も、眼の前に川が流れている素敵な家だった。