沖縄戦の戦跡を訪ねる

糸数アブチラガマの出口

 今回の旅は、三世代、6人の家族旅行になる。
 旅のテーマは、沖縄戦の戦跡を訪ねるということで、実はこれは義理の祖父母の要望であり、そうした祖父母の希望に今回わたし達が同行するというかたちだ。
 今日は、まず糸数壕のアブチラガマに入ることにした。
 アブチラガマのアブとは「深い縦の洞穴」という意味で、チラは「崖のこと」、ガマは、「洞窟やくぼみのこと」を言う*1
 実は、私の勤務する高校は、毎年、沖縄修学旅行をおこなっているのだが、私の学年希望から、これまで一度も沖縄修学旅行に参加したことがなかった。私の同僚は、学年配置によっては、毎年のように修学旅行に行っている。職場の各教員室に、沖縄のちんすこうがみやげ物として置かれることもめずらしくない。
 唯一の地上戦が展開された沖縄*2で、もともとは避難指定壕だったものが、地上戦を戦い抜く中で、陸軍病院の分室になり、負傷兵やひめゆり学徒隊をはじめ沖縄の人間は壕の中での生活を強いられた。
 その壕のひとつ、糸数壕のアブチラガマに私も初めて入った。ここでは、600人以上の負傷兵で埋め尽くされたという。
 全長270メートルとも言われる背をかがめないと入れない壕の中で、戦時中の人々の生活を想像し、何ともやりきれない気持ちになった、
 次に、私たちは平和記念公園を訪れた。

 平和祈念資料館では、悪名高い方言札が私の眼を引いた。
 私は、前に見た番組で、「心に染めよう オジィオバァのことば」という藤木勇人氏の番組を思い出した。ここには、標準語と方言の差別の問題、大言語と少数言語の差別の問題、母語であっても大言語に差別を強いられる言語の問題がある。イギリス語という大言語を学んでいる者として、言語差別の問題を避けて通ることはできない。日本国内であれば、沖縄方言の問題、アイヌ語の問題を避けるわけにはいかないだろう。

 昼ごはんとして、ホーキそばを食べた。
 午後は、ひめゆりの塔ひめゆり平和祈念資料館を見学した。資料館のパンフレットによると、ひめゆりは、花のひめゆりとは関係がないらしい。沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部は、それぞれ「乙姫」「白百合」という校友会誌があり、そこから「姫百合」とつけたようだ。「ひめゆり」とひらがなになったのは、戦後のことだという。
 ひめゆりの愛称で親しまれていた学園から240名が看護要員として動員され、南風原陸軍病院に配置された。1945年6月18日夜、解散命令が出され、生徒たちは戦場に放り出されることになる。「解散命令後の数日間で、100余名のひめゆり学徒が死亡」*3したという。
 崖から飛び降りて自決したというひめゆりの女学生たちを思いながら、沖縄の最南端であるキャン岬を訪れた。

 慶良間諸島から上陸した米軍に分断され、その後は、北へ南へと米軍が侵攻し、南の方では、南へ南へと後退を余儀なくされた。糸数アブチラガマでもらった資料によれば、「90日間にわたる沖縄戦で、日本兵6万6千人、沖縄出身兵2万8千人、米兵1万2千人、一般住民9万4千人が亡くなりました。当時の沖縄県の人口は約50万人でしたから、県民の4人に1人が亡くなったことになります」とあった。
 沖縄に多大な犠牲を強いた歴史がここにある。

 夕食は、「うりずん」という店に出かけた。店内の常連客との交流の中で、三世代で訪問した私たち家族が極めて沖縄的だと評価された。その常連の方たちの沖縄音楽と、沖縄料理で、夕食を楽しんだ。

*1:糸数アブチラガマのパンフレットより。

*2:硫黄島などがあるので、沖縄を「唯一地上戦が展開された沖縄という表現は正確ではない。

*3:ひめゆり平和祈念資料館のパンフレットより。