「椿三十郎」のリメイクを観た

リメイク版「椿三十郎」

 今から28年前の1981年、アメリカ合州国カリフォルニア州のサンフランシスコで私はUCバークレイ校の英語研修を受けていた。映画館ストランドで、たまたま観た日本映画が黒澤明監督の「椿三十郎」だった。初めての黒澤映画*1に感動した。見終わってから、一度マンションに戻って、また映画館に行って再度「椿三十郎」を観たことがあった。
 黒澤明監督の一連の傑作群の中で、「椿三十郎」はB級だといわれているが、私にとっては、わかりやすい大活劇であった。ただ面白いだけでなく、人間観察という深みもあった。
 今回、織田裕二の映画「椿三十郎」のリメイクを見た。
 痛感することは、三船敏郎という傑出した俳優のスピードである。
 映画「椿三十郎」は、椿三十郎という、浪人だが、めっぽう剣が強く、また戦術に長けたスケールの大きな剣豪の話である。
 映画のストーリーを見ないとわからないが、敵陣に突っ込む戦術が取れるのは、めっぽう剣が強いから取りえる戦術・戦法に他ならない。剣が強いから、超人的な活躍ができるのだ。
 所詮作り話だから俳優にそれなりの力量がないと、説得力に欠けてしまう。三船敏郎のスピードには、そうした説得力に溢れていた。
 オリジナル作品には、ユーモアと同時に、実際に切れる剣の恐ろしさ、その恐ろしさの戦慄さも表現されていた。三船が次から次へと敵をたたき斬るスピードと、そのあとの呼吸の整え方に、ものすごくリアリティを感じた。若侍たちをビンタするときの迫力もそうした人間の器の違いに起因している。最後の仲代達矢三船敏郎の対決も、剣の壮絶な恐ろしさを表現していた。剣は切れるのだ。剣の使い手は、剣の恐ろしさを知らないといけない。
 当時のわたしは、黒澤が描いた剣を、「英語」になぞらえて見ていた。
 椿三十郎という剣豪のスケールの大きさ、一方、それとは対照的に、剣も思考方法も未熟な若侍たち。
 「武器」という点では、オリジナル映画は、椿三十郎、室戸のそれぞれの「抜き身」のような切れ味の鋭い「武器」、悪い奴らのそれぞれの「武器」、若侍たちの武器にもならない「武器」、奥方*2をはじめ女性たちが持っている「武器」*3、そして、伊藤雄之助が演じていた人格の「武器」にいたるまで、武器という武器がよく表現されていた。
 それは黒澤明監督の人間観によるものに違いない。
 また黒澤組は、俳優のイメージを頭に入れて、集団でシナリオを書いていたことだろう。当時の三船敏郎仲代達矢加山雄三田中邦衛小林桂樹入江たか子藤原鎌足伊藤雄之助ら、一連の俳優陣たちも、凄いと思う。
 解放されてから、敵方について語る馬面の伊藤雄之助は、政(まつりごと)や人望について語っているが、これがまた、勧善懲悪を超えて、真理をついていた。
 屋敷の門から馬が出発する場面など、黒澤組のカメラワークも凄い。
 椿三十郎なら、私は文句なく、三船・黒澤のオリジナルをお勧めする。
 

*1:子ども時代に「椿三十郎」や「赤ひげ」は見たと思うが、すっかり忘れていた。

*2:「いけませんよ」と言う奥方に三船扮する椿三十郎はめっぽう弱かった。それを「武器」というべきかは別にして奥方の強みであることは確かである。

*3:屋敷に戻るようにお女中に椿三十郎役の三船が指示する場面があり、彼女はその指示をよく理解して、その指示に従う。お前ら若侍よりよっぽど聞きわけがいいし役に立つと、椿三十郎が皮肉を言うシーンもおかしかった。