「これまでですな」(室戸半兵衛)<映画「椿三十郎」>

椿三十郎



 黒沢明の「椿三十郎」(1962年)は、俺の好きな映画だ。
 黒藤(志村喬)と竹林(藤原釜足)の汚職に、井坂(加山雄三)ら若侍たちが憤慨して決起し、井坂の叔父でもある睦田城代家老伊藤雄之助)のところに意見書を届けにいくが、破り捨てられてしまう。次に井坂が大目付の菊井(清水将夫)のところに行くと、菊井は、城代家老の対応とはうって変わって、城代家老の慧眼を恐れて、「この際あなたたち若い人たちとともに立ちましょう」と、若侍たちの決起を励ます。映画の冒頭で、若侍たちの密談で、井坂がこう報告すると、若侍たちは勇気づけられて喜ぶが、その話をたまたま聞いた素浪人・椿三十郎三船敏郎)は、側聞からの推測にすぎないのだが、誰が本当の悪人で誰が味方なのか、当事者でないほうがよくみえると、全体構図を分析してみせる。菊井のほうが悪い奴で、睦田城代家老のほうが本物ではないかというのだ。腕っぷしも相当に強いのだが、椿三十郎の強みは、こうした観察眼と洞察力の鋭さにある。
 こうして観客は、映画の冒頭で、難なく全体構図を理解してしまうのだが、「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)と同様、映画の冒頭から全体構図を示してくれるのは、黒沢映画がわかりやすく面白い理由のひとつだ。

 さて、汚職であれなんであれ、その問題解決に、当の悪人のところに出かけていってお願いしても、解決に向かうことはありえない。悪党の菊井に問題解決を期待しても、菊井が当の悪人なのだから、解決できるわけがない。汚職によって甘い汁を吸える連中にとって、決起した若侍たちは、反逆者である。悪い奴らにとっては、反逆者は一網打尽にするしかない。こうして、井坂らは、菊井の軍勢に包囲されてしまう。
 権力にたいして、知恵も腕っぷしもなく、正義感だけで立ち向かうしかない若侍たちに到底勝ち目はないのだが、そこに知恵もあり腕っぷしも強い椿三十郎が助っ人として超人的に立ち現れ、悪い奴らを懲らしめるというのが、「椿三十郎」の筋書きだ。庶民がこれを見てカタルシスを覚えないわけがない。
 映画「椿三十郎」は、悪い奴らを腕っぷしで支える室戸半兵衛(仲代達矢)、味方としては、睦田夫人の入江たか子、見張りの侍の小林桂樹のキャラクター描写が優れていて、彼らについても書きたいのだけれど、今日はやめておく。

 詳細は省くが、椿三十郎の大活躍で、汚職で藩から甘い汁をさらに吸おうとしていた悪い奴らは退治されてしまう。
 映画の最後のところで、椿屋敷(黒藤の屋敷)内の牢屋に捕らえられた無言の黒藤(志村喬)と竹林(藤原釜足*1を見て、室戸半兵衛(仲代達矢)の言うセリフが、「これまでですな」、である。
 椿三十郎に引っ掻き回されコケにされた室戸半兵衛は、最後は自分が甘い汁を吸おうとした筋書きを台無しにされた椿三十郎に憎悪を燃やす。
 
 けれども、悪い奴らではあるが、室戸半兵衛は、往生際はよい。政治的に敗北したあとは、腕っぷし果たし合いを三十郎に挑むのだ。この勝負の場面が映画としての名場面なのだが、これも今日は書かない。
 言いたいことは、悪いことをしていても、否、悪いことをしているのに、往生際が悪いのは、始末が悪いということだ。
 映画「椿三十郎」では、お家騒動がめでたく解決して、平和を取り戻したところで、睦田城代家老伊藤雄之助)の語るセリフがまたいいのだが、これも今日は割愛する*2

 さて前置きが長くなった。

 本稿を書こうと思った動機は、今回の森友学園事件の経過をみていて、室戸半兵衛の「これまでですな」のセリフを突然思い出したからだ。
 政治家でも、官僚や役人だけに責任を押しつけて、往生際が悪く、責任を取ろうとしない奴らは、始末におえない。
 安倍晋三首相は、昨年2月17日の衆院予算委員会で、国有地を格安で買い取った学校法人「森友学園」が設立する私立小学校の認可や国有地払い下げに関し、「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と自信たっぷりに述べた。
 今回の、隠蔽を目的とした公文書の改ざん・捏造からみて、あらためて安倍昭恵夫人のかかわりを否定できるはずもない。
 国有地格安払い下げによる国政・教育私物化事件は、その内容も、段取りも*3、きわめてお粗末でハレンチな、歴史教科書に記されるべき事件*4である。
 今回の事件により、安倍晋三首相は、必ずや後世に名を残すであろう。
 今回、自らの言葉どおり、辞める選択肢しか残されていない。内閣総辞職に向かって坂を転げ落ち始めたといえる*5
 もはや「これまでですな」であり、あとは時間の問題である*6
 
 こんな、ウソつきで、反国民的で、危機管理能力もふくめたマネージメント能力の欠如した反憲法的な*7政権を支持できるはずもないのだが、これまでの支持率をみると、残念ながら、国民の目は節穴か*8と言わざるをえない。
 黒沢明監督の作品群を観て、観察眼と洞察力を養うべきだろう。
 権力は信用してはいけないのだ。

 室戸半兵衛(仲代達矢)のセリフと同様、麻生太朗財務相安倍晋三首相も、「これまでですな」と俺は思うのだが、今後の動静に眼を離すことができない。

*1:自分の勝手なイメージでしかないのだが、映画「椿三十郎」の最後のところで、椿屋敷(黒藤の屋敷)内の牢屋に捕らえられた無言の黒藤(志村喬)と竹林(藤原釜足)は、なぜか、森友学園の籠池氏を思い起こさせてくれる。

*2:黒藤と竹林は家名断絶。菊井は沙汰の前にみずから切腹する。睦田城代家老は、もっと穏便な処置にとどめたかったと、みずからの気持ちを開陳する。

*3:具体的な例をあげるとするならば、内容的には、背景にあるであろう日本会議との関係と教育勅語礼賛。国政の私物化。学校設置の私物化。段取り的には、教育の私物化。公文書改ざん・捏造があげられる。

*4:前川喜平事務次官が言うように、あったことをないことにはできないし、森友学園事件も、政治が、無理に無理を重ねて、行政をねじまげた事件といえるだろう。

*5:ようやく自民党内で批判的論調が出始めた。

*6:この時間は、国会のなかに、役人のなかに、メディアのなかに、国民のなかに、親安倍的な政治勢力と反安倍的な政治勢力がどれほど拮抗しているかによるだろう。

*7:たとえば、公務員はすべて国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではないという第15条に違反する。安倍政権は、同じ考え(思想)をもつお友達に便宜をはかって奉仕する、学校設置という教育行政を、そして国政を私物化した政権であるといわざるをえない。

*8:国民の目が節穴ということより、株価など、損得で考えることが基本・基準となってしまったといえるのかもしれない。