32年前の1981年、俺はサンフランシスコに6か月滞在していた。
そのときサンフランシスコの近所の映画館で観た黒澤明監督の「椿三十郎」に感銘を受けて、「椿三十郎」を一日に何度も観たことがある。
その後、つとめて黒澤映画を観るようになったのだが、この1時間36分ほどの映画「椿三十郎」は、よくできていると思う。
黒澤映画で1本をすすめるとしたら、俺は、この「椿三十郎」をすすめる。とてもわかりやすく見やすい映画だと思うのだ。
まず、神社の場面。
冒頭から、全体像がつかめるのが黒澤映画。
そして、屋敷の場面。
「建築とは空間である」というが、黒澤明は建築や空間の使い方がうまい。
9人の若侍、それに椿三十郎をくわえて、10人の侍。
組織対組織の闘いは、組織論を学ぶこともできる。
キャラクターも、それぞれきちんと描かれ、同じ侍でも、雑魚はネコで、強い侍はトラとたとえる。
そうした侍をさしおいて、実は、奥方の人間の器のほうが大きかったりする。
黒澤明の人間を見つめる視点は複合的だ。
奥方の、よろしくお願いしますというセリフはとても意味が深い。上に立つものと、それを支える者の区別をきっちりと描く。
さすがの椿三十郎も、ずばり抜き身と言われて、そうした奥方にはめっぽう弱い。それでも、あの奥方は少し足りねえのさなんて言ってしまうところが椿三十郎らしい。助けてもらってなんなんですけど、人を殺すなんていけませんよと、能天気なことを奥方から言われてしまう。奥方の人格には、男侍もみな弱いようで、敵方の侍だって、悪いようにしませんなんて奥方から言われて、納得してしまう。
お名前はと言われて、三十郎、四十郎と答える映画「椿三十郎」は、ユーモア満載だ。
「椿三十郎」は、「判断」がいかに重要であるか、わからせてくれる「判断」のドラマだ。
事実、若侍たちの判断と思慮のなさに、つきあっていられない、お前たちと一緒だと白髪の七十郎になってしまうよと三十郎は切り返す。
場面で印象深いのは、屋敷から馬が次から次へと出ていくローアングルで撮る場面の迫力はすごい。
赤い椿、白い椿のやりとりといい、最後まで、「椿三十郎」は、品のよい映画である。
いい刀は鞘に入っているものというテーマが、最後の圧巻の場面の、どっちか死ぬなんて、つまらねえぜという最後のセリフにつながっている。
音楽は、佐藤勝。
1962年公開の東宝映画。