「男はつらいよ」第43作「寅次郎の休日」を観た

男はつらいよ 寅次郎の休日

 以前見たことのある「男はつらいよ」第43作「寅次郎の休日」を久しぶりに観た。「満男篇」第2弾。
 第42作に登場した満男の高校時代の後輩である及川泉(後藤久美子)が再び登場する本作では、泉の母親役として夏木マリが及川礼子を熱演している。夏木マリ渥美清のからみがいい。
 後藤久美子も、自然体の演技で、抑制的な演技ほど難しいと思うが、素晴らしい女優さんだと思う。
 満男役の吉岡秀隆の演技も秀逸。とくに食卓を囲むピーマンの場面が傑作。
 諏訪家を訪ねる泉の場面、満男が新幹線に飛び乗る場面、夜行列車の礼子と寅さんの場面、大分・日田の場面、ひとつひとつの場面が映画としてたいへん丁寧に描かれている*1
 そして、「家族論」が面白く展開される。
 前作で浪人中の満男が大学生となっている本作では、諏訪満男の家族、そして及川泉の家族が表現されていく。
 映画の終わりのほうで展開される泉の母親と泉、満男と寅次郎の温泉宿の夕食の中で展開される疑似家族の宴会、そしてその後の及川礼子の悲しみと慟哭には説得力がある。泉と礼子、満男と寅の会話には深いものがある。
 それと同時に本作では、いつも以上に、「認識論」の面白さというのか、認識の違いと人間の認識の多様性というものが表現されている。
 父親や母親から見た満男。満男から見た父親と母親。寅から見た満男。泉から見た父親と母親。泉から見た寅。泉から見た満男の家族。満男から見た寅次郎。おばちゃん・おいちゃんから見た寅。礼子から見た寅次郎。御前さまから見た満男や寅。もうやめにするが、万華鏡のような認識の微妙な差異が展開する。かけおちではないが、九州にいっしょに行くことになってしまった泉と満男をどうするかのドタバタの際に、寅次郎自身が、満男は子どもじゃないという認識を示して擁護したかと思うと、礼子(夏木マリ)の登場で、満男はあてにならないと、簡単に認識をひるがえしてしまう寅次郎自身に、悪く言えば人間の認識というもののいい加減さ、よく言えば多様性と変革の可能性が表現されている*2。もっともその理由は美人の礼子の出現によるものと言えるのだが。こうした認識の違いの表現は、寅から礼子に贈られた花束の場面でも、店の女性たちとママさんとのとらさんに対する認識の違いとして、あの場面でも表現されているように思えた。
 そして、満男の「幸せとは何か」。人間とはなんと難しいものかという問題提起。
 単純のようで複雑な人間というものが、本作ではよく描かれている。

 そんな面倒なことを言わなくても、本作は、面白く、深く豊かである。
 東京と大分県・日田、そして名古屋が設定として描かれる本作は、ロードムービーでもある。
 本編は、第2作、寅次郎の母親役のミヤコ蝶々が登場する頃の勢いがある中での完成度の高い作品とは別の味わいであるけれども、とくに寅さんの勢いこそないけれど、山田洋次監督を筆頭に松竹の総力を結集した円熟した完成度の高い作品に仕上がっている。本作も傑作である。
 本篇は、思春期の真っただ中の青少年にも、青春を送っている男女の父親・母親の世代にも、お薦めである。
 寅さんシリーズの傑作の1本という意味でなくても、多くの方々にお薦めしたい。
 1990年公開。

*1:このロードムービーは、テーマは違うが松竹の野村芳太郎監督の「張り込み」を思い出させる。夜行列車の場面はクラーク・ゲーブルのラブコメディの「或る夜の出来事」だったか、あんな場面があった気がする。

*2:この場面は、事実は論争にならないが、その事実に対する認識・意見というものは、常に論争になるということを示していておかしい。